真名子美佳さんについて

小説などの「言葉で書かれた作品」と比べると、言うまでもなくお芝居は「肉体で演じられる作品」です。

お芝居を何度かやったことのある人ならわかると思いますが、表現として両者を比べたとき、「書かれた作品」というのは「演じられる作品」に比べてものすごく厚みに乏しいものです。そこに肉体が介在するか否かによって、作品の急迫度は大きく変わるのです。

もちろん、俗に言う「大根役者」つまり「つまらない役者」によって演じられた場合、せっかく演じられても「書かれた作品」を凌駕できない、むしろ書き物以下の水準しか達成できない場合だって大いにありえます。その場合は、「(表現主体としての)肉体が介在しなかった」ということになるのです。

単にそこにあって声を出していれば表現か、というとそうではありません。劇の世界にちゃんと腰をすえて、劇の空気を呼吸して、はじめて肉体は表現の主体へと「ヘンボウ」するのです。

 

前置きが長くなりましたが、形態ZEROは常に主演の女優さんたちに助けられてきました。

彼女らが舞台に立って台本を読むとき、作者によって「書かれたコトバ」はまったく違う次元の、「演じられるコトバ」へと生まれ変わったものです。そうなると確かに書いたのはこの私なのですが、表現としては私の書いたもの以上のものが、舞台上に現前しました。

思い出すのは第四回公演「犬どもの掠奪された町」のときのこと。ラスト近く、女が男にすがりつき、「もう一度わたしを犯してぇっ」と叫ぶのですが、そこにいたる一連のやりとりを見た或る女性が、「このハナシはすがりつく女のハナシだ」と呟いたのです。私としては虚を突かれた思いでした。なるほど、そう見れば見れるな。でも少なくとも書き物作者の私は、そういう感想を人に抱かせようと意図して書いたわけではなかったのです。つまりそのとき、真名子美佳という主演の女優さんが、この作品を「すがりつく女のハナシ」へと「ヘンボウ」させた、ということになります。彼女の演技が、台本の意図を超えて、人にそう思わせる「説得力」を持った、ということです。では彼女に「この台本を通じてすがりつく女のハナシをつくりあげてやろう」という意図があったか、といえば、それは違う、と思います。彼女はただ、劇の空気を呼吸し、そこに存在しただけです。見事に肉体として存在できたからこそ、人を納得させる表現が「意図せずして」生まれたのです。「演じられる作品」とは、そういうことだと思います。それはいつも、「書かれた作品」の意図を裏切るのです。裏切って、よりリアルな位相にそれを移すのです。

芝居の醍醐味とはなにか、と問われれば、今なら私はそう答えるでしょう。まあそういったことが起こるのは結構まれなことで、真名子美佳さんのような天才がなければなかなか台本を超えた表現には行き着かない、というのがゲンジツなのですが(笑)

 

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コメント: 1
  • #1

    sextel (水曜日, 01 11月 2017 01:44)

    niezagwożdżany