90年代への呪詛

形態ZEROには二度の活動休止があります。

一度は第五回公演を終えたあと、およそ二年のブランクがありました。二度目は第九回公演のあと、現在にまで続く長い長いブランクです。今回は一度目のブランクについて書いてみましょう。

 

私が赤黒風線形態零という劇団名でお芝居を始めた時は90年代の終わりごろです。

あの時代は実にアッケラカンと明るく、お洒落を着こなしてスリムに街をゆくことこそがスバラシイ若者のあり方だ、といった風潮に支配されていた時代だったように思います。

 

当時、私はそのような90年代への呪詛、として台本を書いていました。「暗い」「ダサい」「洗練されてない」「重い」・・・そういったマイナス要素のみで組みあがったお芝居をやること自体が、90年代への、また同年代の若者らへの、抵抗だったのです。

 

ところでしかし、私の劇団を構成するメンバーとて、90年代の若者らでした。私は作・演出者として、劇団のメンバーそのものに対して、そのアッケラカンさに対して、時に言い様のない齟齬を感じてしまっていました。

「この人たちは、私の書く対人恐怖症めいた暗いオハナシを心の底では嫌っているんだろうなあ。もっと明るく若者らしい飛んで跳ねてダンスがあるようなスリムでスタイリッシュなお芝居をやりたい、というのがホンネだろうなあ」

今、思えば、結局そのような「疑惑」が少しずつ積み重なった末、セイコラ彼らに愛されもせぬ台本を書いて提供し続けるのがバカバカしくなり、ほとんどヤケッパチで「もう芝居などやるものか!」と放り投げる感じで「赤黒風線形態零」をストップさせたというのが現実でした。90年代への呪詛が、同年代への呪詛となり、同年代への呪詛がすなわち劇団のメンバーへの呪詛となり、ついにはその呪詛が劇団そのものの命脈を絶つ形になったのでした。

その後、およそ二年のブランクを経て劇団は復活するわけですが、とりあえずこの一度目のブランクについて総括すると、結局、自分の若さゆえのことだったのかなあ、と思います。作品を愛されていようがそうでなかろうが、理解されていようがされていなかろうが、集まってくる役者がいる以上、トコトンまで利用し尽くしてやればよかったのです(笑)。私にはそのような剛毅さが足りませんでした。集団的には全く衰弱していなかったにも関わらず、私個人の肥大する思い込みがブラックホールのようにすべてを巻き込んで「ご破算」にしたわけです。その結果、私たちの擁していた天才、真名子美佳さんは唐組という、唐十郎の率いる大変有名な劇団に「嫁いだ」(?)かたちとなり、復活したあとも二度と私たちのところには戻って来ませんでした。勿体なかったな、と思います。(でも彼女にとっては私たちから離れたことは良かったことです。彼女は唐組で大いに活躍し、とても貴重な女優さんとして高い評価を博することが出来たのですから。)

 

いずれにしても、若さゆえのこととはいえ、当時のことを思い出すと未だに胃がシクシクと鳴ります(笑)

私にとって形態ZEROの前身、「赤黒風線形態零」というのは、いい思い出どころかまったく苦々しい思い出のカタマリみたいなもの、として残っているのです。そこで私の直面したのは、「集団をつくることの根本的な難しさ」なのかも知れません。20歳そこそこで集団と個人にまつわるその難しさを体験できたことは、裏返ってみれば貴重な体験だったのかも知れませんが・・・