お芝居の麻薬性

かつて「芝居は麻薬かね」と聞かれたことがあります。

私は「あぁ、そうかも知れないですね」とゴマカして答えたものです。正直、芝居がまだ身近にあった頃、それを「麻薬」だなどとは思ったことがありませんでした。やめようと思えばいつでもやめられる、俺にとって芝居などそんなものさ、と斜に構えていたのです。

しかし今現在、芝居というものの麻薬性をジワジワと感じ始めています。兵士として戦争をくぐってしまった者が何気ない日常生活に帰還してきた時、その生活と折り合いがつかず、どうしても「ウワの空」になってしまわざるを得ず、再び戦場を求めるようになる、と言われているように、芝居というものにもそれを経験した者にとって、どうしようもなく中毒として作用する部分が、やはりあります。

 

一般に「表現活動」というのはすべてそのような中毒性を持っているものなのでしょうか?

恐らくそうでしょう。しかし、お芝居というものには、ほかのあらゆる表現ジャンルと比較しても異質な、強力な毒性があるように思われます。

 

たとえば私が生活に物足りなさを感じ、何らかの仕方で「表現活動」をやってみようと考えるとき、お芝居以外では、音楽、小説、詩などを思い浮かべます(映画や絵画まで含めると長くなってしまうので、いまは置いときましょう)。

 

この内、詩と音楽で表現されるものは近いような気がします。そこで表出されるのは「一人の人物の世界観」といえるでしょう。「言葉」か「音」かという素材の違いはあるにせよ、いずれにしても「日常的なコトバ」とは異質な素材を使用して非日常的な世界を表出するものです。

小説の場合、詩や音楽と比べて使用する素材(言語)がより日常的な次元に近く、また描写をまじえるために、「個人的な世界観」を非日常的に織り上げることがちょっと難しくなります。そこにはもう少し現実の「社会」にまつわる時間性が入りこんで来ざるを得ないからです。夏目漱石は小説「明暗」を書きながら「小説ばかりを書いていると心が殺伐としてきて困る」と思い、暇をぬっては漢詩をつくっていたそうです。おそらく、音楽や詩は表出していて「気持ちの良いもの」、つまり、作者にとっては「癒し」である筈です。個人的な世界に「浸れる」からです。小説というのは詩や音楽よりも「雑音」が多く介入してくるので、やはりどうしても「さめてしまう」部分が作者に残るでしょう。小説の表出は音楽や詩と比べて圧倒的に「疲れる作業」である筈です。しかし作者がさめている分、そこに「社会性」を導入することが可能になります。言葉はこの場合、「個人的な観念の結晶」を作り上げるために使われるのではなく、「個人と個人の関係性」を描き出すために使われる、と言ってよいのかも知れません。

 

お芝居は役者の「肉体」が描写の素材となります。そこでは確かに、作者につくられた台本があり、彼らはその「ことば」を使用するのですが、「ことば」が実際の音声をもって語られ、演じられるという時点で、すでに「書かれた」という次元を遊離しています。「ことば」は私たちの目の前でやりとりされ、現実世界と同じように、「人物」と「人物」の衝突が起こります。しかも観客がいる同じ時間(いま)・空間(ここ)で起こります。観客は単に「ことば」を読み取るのではなく、それを表出する人物(役者)の肉体を読み取らざるを得ません。たとえば舞台上の役者が腕をあげる、という動作を行ったとき、それを観る我々は「腕をあげる」ことによる筋肉の緊張を自分たちの肉体のうえにも感じ取ろうとするでしょう。役者がセリフを叫ぶとき、我々は叫ばれたセリフの「ことば」を追うと同時に、叫ぶ役者の肉体の緊張感そのものを、生理的に自分の肉体の上に移してきて感じとろうとするでしょう。

無論、「個人的な観念の結晶」をつくるのが目的の舞台もありますし、「個人と個人の関係性」を描くのが目的の舞台だってあります。肉体が介在する割合もそれぞれの舞台によって違うでしょう。しかし本質だけを取り出すなら、役者の肉体が舞台上に存在し、その表出を観る側もまた肉体で受け止める、肉体で読む、ということがお芝居の本質だと思います。

 

くだくだと長くなってしまいましたが、お芝居の麻薬性とはなんだろう、と思うとき、それは人間の不思議さとはなんだろう、と問うのと同じような気がします。なぜなら、肉体というのは言語化されず、意識によって思うままにならない、人間にとって「無意識」の領域だからです。その「無意識の領域」が最大限に参与するのがお芝居の本質だとするなら、お芝居とは人間の本質がもっともむき出しにされる芸術といえるでしょう。

だからお芝居をつくる、という現場をいちど経験してしまうと、ほかの表現方法がいずれも不十分なものに感じられてしまうのです。萩原朔太郎は小説が主流だった当時の文壇において、白眼視されていた詩こそが実は最上の芸術なのだ、と強く論じたてましたが、私は、現代においても極めてマイナーな表現に過ぎないお芝居こそ、あらゆる芸術のなかで最上の芸術なのかもしれない、とひそかに呟いています。

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コメント: 2
  • #1

    sekstelefon (火曜日, 31 10月 2017 21:02)

    przespawać

  • #2

    na tej stronie (金曜日, 17 11月 2017 21:20)

    przepychając