25時間目

私の好きな思想家・評論家に吉本隆明という人がいます。

戦後の日本を代表する大きな思想家で、代表作に「共同幻想論」「言語にとって美とはなにか」などがあります。超が三つ付くくらいに有名な人なのですが、少し若い世代の人には、吉本ばななの父親、といったほうがピンとくる人が多いかもしれません。残念ながら昨年、お亡くなりになってしまいましたが、10代の終わりから20代にかけて、つまり私がモノを書き始めたころは、その思想や文体に絶大な影響を受けていました。

 

この人が書いたことというのはたくさんあるのですが、今、自分の記憶に残っているのは、本格的な思想の部分よりは、むしろ、片手間でポツリと発言したようなことばの端々であったりします。
たとえば、シモーヌ・ヴェイユという思想家について吉本が評価している部分があります。
シモーヌ・ヴェイユというのは哲学者なのですが、労働階級の貧困な生活を自らも体験して、その苦しみを共有するために、
工場での労働に従事します。そこまでは何ということもないのですが、ヴェイユはそこで、「はじめは苦しかった労働が、毎日のことになると当たり前のことになっていく。不幸で不幸で仕方ないと思っていた境遇だが、中に飛び込んでみると案外そうでもなかったりして、労働者階級が貧困打破のために立ち上がろうとしないのも『むべなるかな』と思えてしまう部分がある」というようなことに思い当たります。吉本はヴェイユの、そのような「視点」をたいへん高く評価しています。つまり、普通、「知識階級」の人が「労働者階級」の中に飛び込んでいく場合、じぶんは高みにたって労働者の境遇を憐れなものと感じ、彼らの意識をより高めるためにはどうすればよいか、という「上からの視点」にどうしてもなってしまう、というのです。この場合、「労働者」というのは「知識階級」にとって、どうしても「かわいそうな存在」でなければなりません。「知識階級」というのはたしかに立派なことを言うのですが、「生活者の真理」というのを理解できません。ところがヴェイユは、労働をしながらその境遇が当たり前になっていく「生活者の真理」、というものを、「ごくフツーの人の感覚」で掴む視点を失っていない、それが凄いことなんだ、と吉本は評価するのです。

この「ごくフツーの人の感覚」を、生涯、手放さず、そこから思想を展開していったのが吉本隆明という人です。
生涯、アカデミックな場には属さず、在野の思想家としてじぶんの「かんがえ」を独自に展開していきました。
いま、私が思い出すのは、この人がどこかで書いていた、「25時間目」という考え方です。
できるなら、人間はモノなんか考えることなしに生涯を全う出来ればそれが一番いいことだ、けれど、人間にとって、働いて、食べて、遊んで、眠る、という「日常生活」だけでは済まない場合がある。不幸にも(?)「モノを考える」という領域に片足でも突っ込まざるを得ない人がいるとしたら、日常生活が行われる24時間のほかに、25時間目を持たなければならない。24時間は日常生活をちゃんと全うさせる、「モノを考える」というのは25時間目なんだ、と吉本は言うのです(記憶を辿っているので細かいところは違っているかもしれませんが、論旨は間違えていません)。
アカデミズムに属したことのない吉本らしい考え方です。つまり彼にとって、24時間というのはあくまでも日常生活を全うさせる時間、であり、思想を展開する時間は余分にくっついた「一時間」なわけです。大学の哲学者とかいわゆる「知識人」などにとっては、24時間はモノを考える時間で、日常生活は余分な「一時間」という風に逆転してしまうのかもしれません。現代では趣味が高じて日常生活に支障をきたしてしまう、いわゆる「オタク」的な人というのも、吉本のカテゴリーではかつての「知識階級」と同じ、ということになるかもしれません。

この考えは、モノを考えるという非日常的な時間は「余分」なものであり、日常生活のほうが人間にとっては大きくて、母体のようなものなんだ、モノを考える時は、この母体から出発し、どんなに遠くまでいっても、かならず、母体に帰ってこなければウソなんだ、という思想(難しい言葉では『大衆の原像』)に裏づけられています。こういった考え方は、アカデミズムに属していない、多くの「素人」に勇気を与えます。専門的に考えるお仕事についていなくたって、各自が各自の生活を基盤にモノを考えていいんだ、むしろ、それがほんとうの思想の姿なんだ、というメッセージが込められているからです。この場合は「モノを考える」というのがテーマになっていますが、たとえば「絵を描く」でも「小説を書く」でも「芝居をやる」でも、いわゆる「文化的」といわれるような領域には何にだってあてはまるでしょう。専門家にはならなくても良い、日常生活を全うしながら、しかも25時間目を持つんだ、つくるんだ、でも日常生活に必ず足をつけた上での表現を行うんだ、そんなふうに、吉本の考えを自分にあてはめることが出来る気がします。

文化というのは所詮、お遊びでしょう。それでいいのです。25時間目をいかに人生のなかに作れるか、それがこれからの、私にとっての課題です。

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コメント: 2
  • #1

    鳩。 (金曜日, 18 1月 2013 01:16)

    『いま、吉本隆明25時』って、およそ還暦過ぎあたりに語られてませんでしたか??
    違いますか。
    とにかく先は長いですね。

    …シモーヌさんについて語る吉本さんの音源ちらっと持ってますよ、そういえば思い出しました…。

  • #2

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    pogólcież