モノを書くことについて

かつて私は「生活の落伍者」でありました。その心情をひとことでいえば、「明日死のうが何だろうがどうだって構うか」ということであり、生活なんかどうだっていいよ、ということになります。それよりも自分とはなにか、自分をとりまくこの世界とはなにか、と問い、なにかを表現すること、の方が大事だったのです。
さて「生活落伍者」であった私が生活に埋没したのは20代の終わり近く。まあヤクザなことをやっていたせいで、平均的に見たら遅れてのスタートですね。それから8年ほどの歳月を費やして、現在ではかつての「落伍者」も何とかいっぱしの「生活者」になりおおせた積もりです。ここで言う「生活者」というのは、「表現活動などしない」、「精神に関わるようなヤヤこしいムダ口を叩かない」「自分で自分を語ったりしない」「常に明日の仕事や足もとの生活を第一に考える」人のことです。じっさい、「生活者」になりおおせた私は全く「モノを書く」という非日常的な心の状態になったことはありません。これはとっても健康的なことです。私のこれまでの生涯で、最も健康的と言っても過言ではありません(笑)。

しかし最近、このページを立ち上げ、再び現代詩モドキを書き始めている私がいます。今日は、徒然なるままに、「人は、どんな時、モノを書くか、書き始めるか」というお話から始めてみましょう。(『モノを書く』というのは、ここではほぼ『作品を作る』というのと同意義で使っていると考えてください)。

 

まず、「モノを書く」という状態は、多かれ少なかれ非日常的な状態を指します。つまり、私たちはふだん、誰でもが大なり小なり「生活者」であるわけですが、「モノを書く」という状態に入ったとたん、生活を送っている自分をカッコに入れ、日常生活とは少し違った次元に立って、じぶんの日常を眺めおろすわけです。たとえ「生活」について書いたとしても、その「生活」について書いている自分は日常の「生活者」である自分とは別の次元におり、「生活者」として生きる自分を他人のように「外側から(あるいは内側から)」描いているわけです。
たとえ作品の中で「おれは死ぬ」といったところで、あくまでも「作品の中」であり、それを書いている非日常的な次元の私がそう書くだけで、生活を送っている現実の「この私」は、案外、あっけらかんと生活を続けていたりするわけです。


次に、「モノを書く状態」になるためには、ココロの中に違和感が生じてこなければなりません。たとえば「この日常は現在の私にとって当たり前となりつつある。しかし、この、当たり前に生活をしているという状態は、いったい何なのだ、思想的には、どういうイミが隠されているのだ?」という、「小さな違和感」が生じたとします。違和感が生じれば、それを「打ち消したい」という衝動が生まれます。「違和感」と「それを打ち消す衝動」の作用・反作用が、「書くこと」に繋がります。たとえ「どんなに平凡な日常」について書いていたとしても、それを書く「書き手」の意識は、決して「日常的」ではありません。非日常的な次元から、じぶんの「生活」さらには自分の「イノチのかたち」を追及しているのです。「生活する」ことと、「生活について作品化する」こととは、似たようで全く違う次元のオハナシなのです。

そして、一言で言うなら、モノを書く、という時、その最も強いキッカケとなるのは、「自分と世界の在り方について自己確認したい」そして現在のありようを「異化したい」、という欲望でしょう。

さてここからが昔話。
私が台本を書いていた頃は、自分の周りにあるものがすべて「よそよそしいもの」でした。自分と世界の間には壁があり、自分の心の対象とできるものがない。周りの人が当たり前のように行う会話にじぶんはついていけない。周りの人が「課題」として取り組むような問題がじぶんには全く切実に感じられない。このような自分は、一体なんなのか。じぶんは一体、この世界とどのように繋がっており、また、この世界はいかなる時代的な意味をもって、じぶんと関わっているのだろうか。まるで生きながら死んでいるような虚しさは、どこからやってくるのか。そのような疑問が、心の全領域を占めていたと言っても過言ではありません。

たとえば「犬どもの掠奪された町」という台本では、「人を殺しても駄目、強姦しても駄目、感じない!何も感じない!何をやっても俺の歴史が、俺の生きてきたという歴史がなあにひとつ残らない!」というセリフを書きました。これは当時のじぶんの「いのち」の状態を、ほとんどそのまま、書いたようなセリフです。もちろん、私は人を殺したことも強姦したこともありません。しかし、仮にそうしたことをやったとしても、無感動で仮死状態に落ち込んだままのようなじぶんの心には、何も響いて来るものがないだろう、と、ほとんど確信的に思っていました。仮に私がそのような「犯罪的」なことに手を染め、自分以外の生命に損害を与えたとしても、まるで「他人事」のように、自分のやったことを見ている「冷徹な自分」がいるだろう、ということです。つまり私は生きながら、「死んでいる」のも同じだったのです。少なくとも、当時の私の「モノ書きの意識」にとって、日々を生きる自分の姿はそのように映っていました。

つまり、台本を書く、ということは、当時の私にとって、「死んでいるのも同然の自分」とは一体どういう存在なのか?を問い続けることと同じでした。そして同時に、自分が落ち込んでいる状態というのは、必ずしも私個人の問題であるとも言い切れぬ、自分の背中には、きっと「時代」の刻印がうたれている筈だ、だとすれば、同時代に生きる他の人々にも、多かれ少なかれうちこまれている刻印に違いない、であるなら、私が台本を書きそれを舞台にのせ、人に観てもらうという行為にも、自己満足以上のイミがついてくる筈だ、と思っていました(結果としてどこまで人々に急迫し切れたかは別として)。

ポイントはそうした「洞察」がすべて「日常の私」からもたらされたものではなく、モノを書く、という非日常的な領域に片足を突っ込んだ「もう一人の私」の意識からなされたものだ、ということです。「死んでいるのも同然だ」という自己に関する認識は、「モノ書きとしての意識」がもたらしたもので、現実に生きている日常の私は別に自分を「死んでいる」とは思っていない「能天気な存在」だったわけです。そういった分裂が、「モノを書く」という経験には必ずあります。非日常的な状態に片足突っ込んだ私が、日常の私をある断面で切る、するとその断面図があらわれ、「或る位相から眺めた場合にお前はこういう存在なんだよ」、と告げ知らせてくれる(そういう意味では、モノを書く、ということは常に自己発見でもあるのです)。

つまりモノを書く、というのは、自分を分裂させることです。
そしてこの分裂は、ホンモノのビョーキででもない限りは、自ら意志して発動させる必要があります。じぶんのココロに「違和感」の方から飛び込んできてくれる場合は別ですが、たいていの場合、平穏な日々に紛れてしまうと自分のなかに分裂がなくなって、ただの一枚岩の意識になってしまう傾向があります。特に、日常生活に頭のてっぺんからつま先までドップリ浸かってしまっているヒト(現在の私のような)にとっては。

私は現在、もう慣れ始めてきたこの自らの「生活者の位相」を、ある断面から切り取って異化してみたい欲望に捉えられています。うまい具合にココロの中に分裂を作り出し、自分が現実に生きている、この「わかったことだらけ」な日常を、もういちど「わからないことだらけ」の新鮮な空域に戻してみたいのです。それは、「当たり前」のことに驚く子供の視線を、大人の流儀でもう一度取り戻す試み、と言えるかもしれません。昔は自分の病的な部分を追うのが主な創作動機でしたが、現在の私は「暮らしの足元を掘り進める」、つまり平凡な生活という言語化されない無意識の領域を追求することによって、そこに表現の鉱脈を見つけだせたら、と考えています。

 

量・質感ともにある程度のまとまりをもった台本や小説やらをつくれるようになるかどうかはわかりませんが、非日常的な領域に片足突っ込む感覚だけは、徐々に戻ってきつつあるのを感じています。

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コメント: 1
  • #1

    鳩。 (木曜日, 24 1月 2013 00:48)

    面白そうですね。
    あなたの作品について言及しなくて申し訳ないですが、私はコリオレイナスのラストシーンを見ながら初めてこれを書いているシェークスピアという異国のビックネームを、『自身はコリオレイナスのようには死ねず、だから書く側にまわった人間がいるのだよな』と、仲間の存在を見る思いになりました、よ。と、思い出しました。
    おきばりやす。