私たちの社会生活を構成するキーワードは何か、を考えてみるに、それは「恥」ではないか、と思えてきた。
つまり、できるかぎり、恥部をさらさないよう気を使うのが社会生活だ
恥とはなんだろうか。
ざっと思いつくところでは、

 

恥が成立するにはまず、他人の目がなければならない。他人の目がなければ、恥など感じない。だから恥とは、それ独立で成立する感情ではなく、他人の目を介在させた感情である。

 

恥が成立する時には、自分が劣っているという感覚を伴う。何から?いわゆる一般的観念である。たとえば「男」という一般的観念が「女より力が強く、危険から女を守るべき存在」だとするなら、その一般的な男性像より劣る自分のすがたを「他人の目」に目撃された場合、恥を感じるだろう。つまり自分が一般的観念よりも劣る場合、私たちは恥を感じる。

 

③社会的な役割を果たせなかったとき、私たちは恥を感じる。たとえば自分が鉄道員であるとして、当然知っているべきはずの電車のダイヤを客にたずねられた時、答えられないとすると私は恥を感じるだろう。私たちは「~のくせして」という言い回しをよくする。「作家のくせに常用漢字しか書けない」とか、「いい歳してるくせに女の一人もくどけない」、「リーダーのくせして部下に間違いを指摘されてばかりいる」など。いずれも「恥」が生まれてきてしかるべき例だろう。

以上から突っ走って結論づけるとすると、恥とは、

自分が一般的観念より劣ったり、社会的役割から脱落する姿が他人の目に触れたときに生ずる感情である。

これだとカタイから、もう少し突っ込んでみる。

一般的観念や社会的役割とはなにか。
「女」という一般的観念が、たとえば、単純すぎて恐縮だが「ハナクソなどほじらない存在」だとしよう。「ハナクソなどほじらない」と決めたのは誰か?誰でもない。にもかかわらず、我々はこのように思っている(むしろ信仰している)。女の子は人前でハナクソをほじってはならぬのだ。何となくみんなが思っている、この「なんとなく」ということが一般的観念の本質である。社会的役割の場合は、もう少し確定的な感じになる。たとえば「先生」の役割が「後進のものを教え導く」だとすると、これはもう動かせない確固としたルールみたいな取り決めとして作用し始める。「後進のものを教え導かない」時点で、もう「先生」という役割は成立しなくなるからだ。一般的観念が「皆、なんとなく信じている幻想」だとすると、社会的役割は「目に見える形となった幻想」ということが出来るだろう。

いずれにしても、共通項は「不特定多数の人間」がいつのまにか決めてしまったもの、ということだ。すなわち、「他人どものつくりあげた価値観」である。
「他人どものつくりあげた価値観」であるから、私たちにはどこかしら「ウソくさい」ものとならざるを得ない。「お前はハナクソをほじるような存在ではない」と他人どもに言われようが、一人になれば自由にほじれるのだし、「後進のものを教え導く」のが「先生」であるからと言って、生徒の中にはカオも見たくないクソ生意気なガキだっているだろう。そんなガキを教え導くなどごめんだ、死ね!、と思う先生がいたって、それはしょうがない事なのである。
しかし、これら無数の「法律」(そう言ってしまっても極端ではあるまい)をつくりあげた当の「他人ども」のカオがはっきり見えないために、一般的観念も社会的役割も、あたかも神がつくりあげた律法のように、私たちの頭上に覆いかぶさる抑圧として働きはじめる。「~らしく」というコトバが、いかに、日常、私たちのココロとカラダを縛り付けていることか。そこから逸脱した姿を他人に見られれば、背骨を抜かれて歩けなくなるほどの恥に襲われてしまう。と思うから、私たちは何とか「他人どもの掟」をやぶらず無難に呼吸していけるよう、日々、心がけなければならないのである。

「他人ども」は、じゃあ、どこにいるのか、といわれれば、どこにもいない。言い換えれば、誰でもが「他人ども」の代表となり得る。私が道を歩いているとする。あちらから女子高生がやってくる。ちょっとかわいかったりすると、知らずと私も緊張する。ちょうど服も新調したばかりで、私はちょっとした紳士に見えるかもしれない。でもキョトキョトしていると挙動不審と思われてしまうかも知れないので、自然に、自然に、を心がけて、颯爽と女子高生をやり過ごす。成功だ。私は一人の紳士だったはずだ。ほんのりと自信を感じる。だが靴紐がほどけているようなので目を下に下ろすと、ズボンのチャックが開いている。私は強烈な「恥」に襲われる。何の変哲もなかった女子高生が「他人ども」の代表となるのはこの瞬間だ。女子高生のふたつの目はただの目ではなく、その背後に無数の「他人ども」を隠し持った得体の知れぬ「怪物の目」へと変貌する。するともう私は巨大な怪物に裁かれる弱小な被告人に過ぎない。紳士として見てもらいたいという欲望が高ければ高いほど、その落差からくる「恥」の感情は強烈になるだろう。
さて、このとき、向こうから歩いてくるのが女子高生ではなく、妻や親友だったとしたらどうだろう。妻や親友は私に注意するだろう。「ちょっとチャックあいてるよ!」私は「あっ」と思い、やはり恥ずかしく思うだろう。だが、妻や親友に対して恥ずかしいのではない。「ここに来るまでの間、誰かに見られたに違いない」ということが恥ずかしいのである。つまり、私たちは肉親やごく近しい人の前では「恥」を感じない。なぜか。彼らが何を考えているか、見通すことが出来るからである。他人とは、多かれ少なかれ「何を考えているかわからない存在」をさす。何を考えているのかわからないので、私たちはそこに「当て推量」を働かせるほかない。私たちはいつも「一般的な人」というのを想定し、「一般的なまなざし」にさらされてもおかしくないような言動を心がけるのである。もちろん、その推量は外れているかもしれない。目の前のこの人は私にどのような判決を下すのか?「紳士」か?「平凡人」か?「変態」か?常に、私は目の前の人が何を考えているのか読まなければならない。そしてその答えは、たぶん永久にやってはこない。答えを知りたくて、「あなた、私をヘンだと思いましたね?」と私が問うとする。「そんなことないですよ」と相手が否定する。「あ、良かった。ヘンだと思われてない」ちょっぴり私は安心する。しかし即座に、「でもやっぱり本当はヘンだと思っていて、はっきり言えないだけなんじゃないか?」との疑惑が心をかすめる。確率はフィフティフィフティだが、それを確認する方法はない。私は判決を前に中断された被告席に座っているかのように、落ち着くことができない。相手の言動はどちらにも意味づけることができる。この場合、「ヘン」と思われること自体が私を不安にするのではない。相手が確実に私のことを「ヘン」だと思っていると、私が確信できるならば不安は一挙に消え去るだろう。その場合は私は「ヘンな人」なのでありそれ以上でも以下でもない。正々堂々と「ヘン」をやりつづければいいだけだ。問題は、それが「どちらでもあり得る」という状態なのだ。「どちらでもあり得る」から、私はどのように動いたらいいのか判断に迷う。「普通の人」としてか「ヘンな人」としてか?たのむから俺に役をふってくれ!というわけだ。

ここで想像してみる。自分がいま、犯罪を犯してきたとする。私は何気なさを装って街を歩く。だが通行人の視線が気になる。「じぶんの犯したことが見抜かれているのではないか?」という不安である。そうした疑惑の目でみると、人々のヒソヒソ話す声やチラと投げる一瞥、ありとあらゆるものが一つの意味「おまえが犯人だ!」に関係づけられてくるように思えてくる。しかし、必ずしもそうとは断言できない。私が犯罪を犯してきたことなど、人々は知るよしもないからだ。いったい人々の目のなかで、私は「犯罪者」なのか「その他大勢のうちの一人」なのか?だがそこに解決はもたらされない。最終判決は下されない。私の存在は宙につられたまま、保留されてしまう。
さてそこに警察が来て「お前が犯人だ」と私を捕まえる。「しまった!」と私が思う。しかしその瞬間から、あの得体のしれぬ不安は消え去る。私は「犯罪者」に「なった」のである。宙吊りの不安から解放され、少なくとも一つの果たすべき「役割」公式に与えられたのだ。これからは私は公然と「犯人」をやればいいのである。


公然とやってよいものを確信できたとき、人は不安から解放される。だが、たとえば「男」「女」「父」「母」といった一般的観念は、昔と違ってもうそれほど確かなものでもなくなってきているのが現状ではないか。「他人どもの掟」も、多様化している、というわけだ。答えが一つではないので、どのように振舞えばいいのか、絶えず「他人ども」の空気を読まなければならない。「こう振舞え!」という確信がなかなか持てない。ただでさえ他人とは「読めない存在」であるのに、輪をかけて一般的観念が多様化しつつあるのだ。

私たちの社会は、いかに多くの「当て推量」で成り立っていることだろう。一歩自分の家から外に出る。その瞬間から、得体の知れぬ「他人どものまなざし」は始まり、私たちは赤外線をくぐりぬけるように、上手にその視線の意味を読み、やり過ごさなければならない。私たちの行動というのは、一見、「自分の思うようにやっている」ように見える時でも、実は、知らないうちに無形の「他人どもの視線」によって決定されている部分が多大にある。そして「他人どもの視線」は日々を通じて私たちのカラダに刻みこまれる。歩く身のこなし、視線の泳がせ方、あらゆるカラダにまつわる動作が、知らないうちに「他人どもの視線」によって調教され、個人個人の「癖」を作り上げていくのだ。ときに残酷なまでにカラダに刻み込まれる他人どもの視線は、さまざまなビョーキとして身体にあらわれることだろう。

日本文化は「罪」でなく「恥」の文化だ、とよく言われるが、「恥」を回避するための「当て推量」があまりに幅を利かせすぎるのが、日本社会の「息苦しさ」の一環を担っているのは間違いないと思う。

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コメント: 1
  • #1

    鳩。 (水曜日, 30 1月 2013 00:33)

    なるほど。そうですね。
    いつかそのうち機会があったら、あの人に、この人に、恥をかかせないために、自分が、自分は、自分の恥を乗り越えるときの話を教えてください。