いかりのあおさ また苦さ・・・

宮沢賢治の作品を片っ端から読んでいた時期がある。
宮沢賢治といえば人はすぐ人間離れした「聖人」のイメージを抱くだろう。実際、彼にそういった部分があるのは事実だ。だが、私が賢治の作品を読んでいて引っかかるのは、そうした「聖人」的な部分ではなく、人間的な「弱さ」の部分である。

たとえば、誰でも知っている童話「銀河鉄道の夜」で、私に最も印象的なのは、「かおる子」が乗車してきてしばらくしてからの部分。かおる子とカンパネルラが楽しそうに話している脇で、ジョバンニはだんだん不機嫌になっていく。かおる子とカンパネルラの間に醸成された親和的な空気に、うまく入っていけないからだ。明かりのついた汽車の中ではみんなが会話を楽しんでいる。すねたジョバンニはひとり、真っ暗な車窓の外に顔を出したまま、みんなの会話に加わろうとはしない。物語の隙間をつくかのように、ジョバンニの独白が断続的に挿入される。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう)(こんなにしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないんだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカンパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい)

ジョバンニは完全に「かおる子」に嫉妬している。カンパネルラの関心をひとり占め出来ないことが悔しいのだ。そして同時に、みんなの楽しげな会話をよそに、ひとり暗く沈んでいる自分の身勝手さにも気づいている。その切なさを噛み締めている。この場面には、ずいぶんと生々しい人間の心理が描かれているように思う。ギラリと光るようなリアリティーを感じる。それはたぶん、賢治の性格的な「暗さ」の部分が、明るい満月のオモテを走るむら雲のように、童話の中を一瞬、よぎった影だからだろう、と思う。

この「暗さ」が丸ごとそのまま作品になってしまったのが「土神ときつね」である。

もしも私が賢治の作品の中で、最も好きなのは何か、と聞かれれば、この「土神ときつね」を挙げる。
土神と狐が、美しい女の樺の木をモノにしようと彼らなりのやり方でアプローチをかける、三角関係の話だ。あらゆる面で風采のあがらぬ土神は、何でもスマートにこなしてしまう狐のことが小憎らしくてたまらない。樺の木は「モノ知り」で「お洒落」な狐に好意を抱きこそすれ、朴訥で感情表現のヘタクソな土神のことは想ってくれない。最後は嫉妬した土神が狐をひねり潰して殺してしまうわけだが、読後にはなんともやり切れない思いが残る。

この童話のポイントは、もちろん「嫉妬」なのだが、それともう一つ、土神がまがりなりにも「神」と呼ばれる存在であることだ。
土神は性格が粗暴なため、みんなに怖がられ、まったく好かれることがない。しかし馬鹿にされているというわけでもない。まがりなりにも「神」であるためだ。土神自身にも、おのれが「神」であることの自覚がある。だから皆から畏敬されていることも知っている。樺の木も明らかに土神を畏敬している。けれど土神はそれで満足できない。狐と樺の木の間には、「信頼」と「愛」による「自然な関係」が築かれているのに(実は狐だって無理をしていたというドンデン返しがあるのだが)、土神にはそうした「自然な関係」が築けない。与えられない。狐と樺の木の間に入ってゆくことがどうしても出来ない。土神がにこやかに近づいて行っても、樺の木は怖がって心を開いてくれないのだ。「皆と自然な関係が築けない」という存在にまつわる「暗さ」が、土神の嫉妬をさらに宿命的なものにしている。

宮沢賢治がこのような三角関係を設定した因子は何か。
それは詩「春と修羅」の一節に「いかりのあおさ また苦さ おれは一人の修羅なのだ」とあるように、自分が修羅だ、という自己認識であろう。賢治は自分自身の中に「修羅」が隠れているのを知っていた。「修羅」とは仏教用語で、10ある生命段階のうちの一つ。「そのカオや振る舞いは天人のようだが、内心にはどす黒い嫉妬や怒りが渦巻いており、たたかいを好む悪趣」とされる生命段階である。恐らく賢治は、ふだん、周りの人間関係の中で、「とてもいい人」だと思われていた筈だ。本人もまた、そう思われていることを知っていただろう。だがそうであればあるほど、誰も知らない自分の内なる「修羅」を恐れた筈だ。いや、そこに含まれる「怒り」が、周りの人々の幸せな笑顔を破壊してしまうことを恐れた筈だ。車窓の外に顔を出して、たった一人、「さびしい」と独白するジョバンニは、なぜ、車内の明るい場所に戻ろうとしないか。自分の「怒り」からくる「暗さ」が、明るい車内を翳らせるのを恐れるからだ。

嫉妬とは怒りである。
しかし、敵対する存在を一直線に滅ぼす怒りではない。外に現れず、内心にくすぶる怒りだ。外に表現されるたぐいの怒りであるなら、そこに暗さはやってこない。くすぶるから誰にも知られず、誰にも知られないからいよいよ切なくなり、その切なさがやがて「自分ひとり別世界のにんげん」という認識を生み出し、その疎外感が最終的には「世の中みんな消えてなくなれ!」といった全世界の拒否にまで繋がってゆく。そうした一連の心理の動きが、嫉妬にはある。攻撃感情をどんどん内向して溜め込んでいくために、自分の「外」を流れる時間と「なか」を流れる時間がずれ込んでゆく。その「ずれ」は本人がいちばんよく感じている。だが、いちど煮えたぎりはじめた怒りはどうにもならない。だから、切ないのであり、さびしいのだ。

嫉妬は「自分が享受してしかるべきもの」を、第三者に横取りされたときに生まれる。
三角関係の中で、「私がこんなにやってあげているのに、あいつはほかの女(男)に愛を注いでいる」というセリフが漏れてきたとしたら、それが嫉妬の典型である。
だが、それは男女の間だけに起るものではないし、また、必ずしも何らかの事件をキッカケにして起るものでもない。それは一過性の嫉妬に過ぎない。
宮沢賢治が「おれは修羅だ」と言うとき、それはひとつの「宿命」のような意味で使っていると思われる。
特定の女の愛が欲しかったり誰かれの優しさが欲しかったりするのではなく(もちろんそれもあるだろうが)、生きてあることそれ自体が、「修羅」なのだと。「修羅」は常に内心に怒りをもっている。それは、自分の心を満たすものがこの世界の中に見つからないためだ。決して満たされないから周りを否定したくなってくる。だから「修羅」とは、「世界を喪失し続けている存在」、の別名である。私には、賢治がそうした意味で「修羅」というコトバを使っているように思える。
つまり賢治の抱えていた「さびしさ」、それは世界喪失のさびしさではないだろうか。

晩年、賢治はほとんど自殺とも言えるような自己犠牲をもって農民たちに献身する生活に身を投じてゆくわけだが、そこに「世界を取り戻したいという遮二無二な希求」を読み込んでしまうのは、「聖人」宮沢賢治をあまりに冒涜する読みであろうか?読みというのは常に「自分」に引き寄せて行われるものだ。少なくとも現在の私では、「聖人」としての賢治を読みに引き込んでくるのはまだまだ早すぎる、ということなのかもしれない。

コメントをお書きください

コメント: 4
  • #1

    鳩。 (金曜日, 01 2月 2013 08:29)

    宮沢賢治の文章を読むと、何故ぇにか、思い出すのは、15歳の頃、並べた私のそれよりも白く美しかった同じ年の少年の脚が、憎かった、ということです………

  • #2

    keitai0 (金曜日, 01 2月 2013 08:56)

    なるほどねえ。やっぱり宮沢賢治の作品には、どこか、暗いものがありますね。読む人のコンプレックスだったり隠された弱さを刺激するんでしょうね。思春期に感じるようなプリミティブなあり方で。太宰治に通じるところがある気がします。

  • #3

    鳩。 (土曜日, 02 2月 2013 00:37)

    太宰さんは、女子の脳にとって、特に知りたくなかった現実を突きつけてくれる感じが、なんとも……それ故、畜犬談を見つけた時には、ちょっと、安心しました…よかった、この人、まだ、大丈夫だ、私、と女子心に、そう思いました…

  • #4

    tu zobacz (金曜日, 03 11月 2017 18:06)

    negliżyk