子の微笑み

父とはなんだろうか、と考える。
私にとって、父とは、つねに私を打ち負かすものとしてある。物心ついたころから、父とは対等に話をすることができない。父を前にすると、あきらめが先にたつ。「どう自分を表現してもムダだ」というあきらめ。私が一人の男として父の前に立とうとする。それは頭ごなしに否定される。父とは人の形をした法律である。法律第一条には「お前は子供であり続けなければならぬ」という一行が厳かに記されている。私が一人の男として立つ。それが悪いことのように思えてくる。父の前では、子であり続けなければならない。だから、父の前では子を演じる。

父とはなんだろうか。

子供の頃はいざ知らず、ある年齢を超えるところから、父とは実在の肉親であることを超えて、もっと普遍的な存在になるような気がする。
私が社会で出会う誰かれ。
その誰かれと私の関係性が、いやおうなく「父と子の関係性」になってしまう気がする。
年上の誰かれ、上司の誰かれ。
私のカラダは常にそうした誰かれの前で緊張する。縮こまろうとする。無意識の裡に、カラダが子供を演じようとするからだ。私は彼らのカオ色をうかがう。彼らの審判をただ待つかのように。

子であることを逸脱すれば、どうなるというのだろう?まさか死ぬわけでもあるまいに。しかし、もしも私が子の役割を降りれば、何かが決定的に壊れるのは確からしく思われる。私と誰かれの関係性が崩れれば、私はどうすればいいのかわからない。それが恐ろしいのだ。

だが、子を演じ続ける、ということは、自分のなかでなにかを押し殺すことだ。
それを心の動きといおうか?
心の動きを絞め殺さなければ、子供を演じることは出来ない。

心の動き。

それを押し殺した状態で、私は人と何を話せるというのだろう。できるのは相手の話に打つ相槌と、常識の範囲で決められているであろうルールにのっとった内実のないうけこたえ。私は人づきあいが出来ない。それを演じることしかできない。しかも心の動きのないままに。だからたぶん、人生の多くの場面において、私は「良い聞き手」であったはずだ。一時間でも二時間でも、私は自分の心をさしはさむことなく、人のハナシを聞くことができた。相手が話せば話すほど、私はますますゼロに近くなっていった。従順な子供のようにだ。私はいったい、どこにいるのだろう?と思いながら。そして一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、三時間が過ぎ、思う存分にハナシを聞いてもらえた相手が満足する。私もまた相手の満足感を前に安心する。
そしてふと、死にたくなる。

自分の心の動きがわからなくなり、自分がどこにもいなくなってしまった、と感じられるとき、私は死にたく思い、同時に、父親殺しというコトバが、憧れをもって思い出されてくる。
父を殺せば、じぶんがかえってくる、という神話。しかし決して実現されないであろう神話。

父とは、ひとつの法律である。
ただの法律ではない。古ぼけた、ぼろぼろな、あわれな法律である。
あわれと感じるがゆえに、子は、父を殺すことができない。
父を殺すくらいなら、自分を殺すほうがましだ、と思えるからだ。
子は、父をまえに、いつでもにこやかに笑っている。
死にたいと呟きながら、ほほ笑みを浮かべている。