心の問いかけ

青春時代のハシカだと言って、漏れなく人が捨てていくものがある。

それは自意識の病熱という場合もあるだろうし、両親や目上の人間、権威、ルールに対する反抗、また自分はなぜ、生きているのだろうかといった悩みの形をとる場合もあるだろう。

 

ひっくるめて言えば、いわゆる「青春時代の懊悩」とは、「自分の存在についての懊悩」ということになる。身体が急激に成長することで奔逸してくる生命のエネルギーを放出したい。しかし放出しようとしても、外部にはそれを許さない強固な抵抗が存在している。人はそれぞれの仕方で「戦う」だろうが、必ず「敗北する宿命」を負っている。体外に出てゆけないエネルギーは抑圧されて、身体のなかで「しこり」になってとどこおる。出口を探して渦をまく「しこり」は、時には自分自身の身体を攻撃の対象にすることもあるだろう。

・・・その「しこり」それがすなわち、人が「心」という名で呼びあらわすものの正体だ。もちろん、もっと小さな子供のときから人には「心」という現象が存在する。しかし、自分の「内部」と「外部」といった、くっきりとした境界線をつくり、はっきりと「心」を完成させるのは、いわゆる「思春期」または「青春時代」といわれるような時期にあたっている。

 

つまりこの点だけでいえば、青春時代の問題というのは、エネルギー処理の問題に還元される。

やがて人は自分の身体から作り出されるエネルギーを外部のルールに則ったやり方で放出し、摩擦を回避しながら小出しにすることを覚えていくだろう。それは社会にとって有益なエネルギーとして回収される。渦を巻いていたエネルギーの「しこり」はほぐされ、自分や外部への破壊衝動はほとんど消え去る。社会はお金という「ご褒美」のカタチで私たちのエネルギー供給にこたえてくれるし、私たちはそのお金を使って娯楽や生活資材を買うことで、自分を取り巻く外部の環境を「快適なもの」に仕立てあげていく。「社会」と「私」とはそのように平和条約を結ぶ。かくして青春時代に人を悩ませた自分の「内面」と「外部」の矛盾・葛藤は乗り越えられていく。めでたく卒業、今日からオトナの仲間入り、というわけだ。

 

ただし、それでメデタシ、メデタシ、とは残念ながらならない。

日々の娯楽で仕事の疲れを癒しながら「なんとなくしたマンゾク」に浸って「なんとなく生きてゆく」オトナは、次第に気味の悪い空洞を胸に抱え込むことになるだろう。かつてあれ程くっきりとしていた「私」と「世界」の境界線は次第に曖昧になり、じぶんの「心」が見えなくなっていく。決してシアワセとは言い切れないが、かと言って不幸と呼ぶには大ゲサな、「なんとなくの日常」が待っている。加速度的に心は鈍感になり、善悪や美醜といった価値判断を「習慣」で判別するしかなくなくなっていく。オトナは「心」ではなく、「習慣」で生きているイキモノだ。誰もが一様に「青春時代」を懐かしがり、「あのころ俺らは若かった。いやぁ~青春時代っていいねぇ」などというが、その背後では「俺らは成長したんだ。乗り越えたんだ。人間のほんとの姿がわかったのだ。つまりは世の中こんなものよ」といったような、甘ったれた自己満足感が必ずひそんでいる。

 

本当は、オトナは「乗り越えて」などいない。「人間のほんとの姿」をわかったのでもない。ただエネルギー処理が上手くなっただけのことだ。なぜ、我々は生きているのか、といったような本質的な問いには、相変わらずこたえられない。もちろん、聖者でない限り、誰もそんな問いにはこたえられない。しかし、少なくとも「問い」の只中にある子供に関して言えば、それをゴマカすことしかしないオトナよりも人間の本質的課題に敏感であり、敏感である分だけ、この世の真実に「より近い場所」に立っている存在だとは言える気がする。

 

オトナとは、生活のために人間の本質的課題をとりあえず棚にあげておけるヒトたちのことだ。たぶん誰だって、そのように生きている。少しずつ、心を削っている。そのこと自体、否定されるべきものでもない。ただの自然の過程だからだ。

しかし、子供からオトナにかわり始める頃に誰もが感じた筈の「自分の存在とは何か」という問い、「どうすればもっと素晴らしい存在になれるか」という問いは、エネルギー処理の問題を超えて、人間が決して捨ててはならぬ重大な問いの一つなのではないかと思う。