Summertime

という曲が好きだ。
原曲はガーシュウィン作曲で「ポーギーとベス」というオペラのなかの一曲。らしいのだが、恥ずかしながらそういったことを知ったのはあとのことで、原曲よりも他のミュージシャンが残したカヴァーの方が私には馴染み深い。

初めて聴いたのは、ジャニス・ジョプリンがカヴァーしたバージョンで、「Cheap Thrills」というCDに収められたものだ。次はアルバート・アイラーのサックス演奏で「My Name is Albert Ayler」というCDに収められたもの。
どちらも原曲を崩しに崩して演奏されているが、ともに破滅的に生涯を終えた二人に相応しく、気怠くリリカルな作品に仕上がっている点で共通している。

この曲は、私のこれまでの人生の節目節目で、いつもバックグラウンドミュージックみたいに流れていた。
新宿で退廃的な一人暮らしをしている時は、西武線がすぐ真下を走るおんぼろアパートの窓辺で流れていた。足立区でタクシー運転手をやりながら秘かに爪を研ぐ思いで「ゲッセマネの処女」という台本を書いている時にも、寝不足の眼の横でこの曲がかかっていた。
ブランクを空けて形態ZEROが復活した時には、客入れ音楽の一つとして、ほとんど毎回使っていたのを思い出す。

誰にだってそうだろうが、自分の生活史の節目節目に流れていた音楽には、どうしても或る「匂い」みたいなものが絡み付く。
私にとって、サマータイムという曲は、祈りながら泣く涙の匂いだ。
祈りながら、泣く。
これを聴いていると、かつて私が、なんとかして現状を脱したいという祈りと、どうしたって無理だよ、という諦めや挫折と、ないまぜになった命の振動で日々を送っていたことを思い出す。
あの頃、いつだって心は「生」と「死」のはざまにあった。
ほんの一押し、後ろから何かが押せば、「生」と「死」のあいだなど、容易に行き来してしまえるように思っていた。明日、などそこにはなかった。

(ちなみに、最近、うめいまほさんという女優さんが、お芝居のことを指して、「人の生き死にに似ている」と評していた。
ああ、そうか、と私は思った。
なぜに芝居が、それをやる人間にとって麻薬として働くか。
それは、あの芸術様式が、「人の生き死に」に極めて近い様式だからなのだ。
生と死を行き来するのがお芝居だ。
そして人間にとって、生と死の往来ということ以上に本質的なテーマはない。
そうだった、その通りだよ、と思う。)

ジャニスもアイラーも夭折した。美しいままに、消えた。
それが羨ましくない、と言えば嘘になる。
私は多分、夭折することなく、汚れに汚れながら、意外と長生きをして生涯を全うするだろう。
年ごとに重くなっていく生活の澱がそこにはある。そして現在、お芝居という手段を持たない私には、「生」と「死」の障壁を超えることは出来ない。

かつて私の愛したサマータイムという曲は、夭折する者の音楽だ。
夭折できない私は、いま、アイラーのサックスでこの曲を聴いて、取り残された思いを感じる。焦燥を感じる。


しかし、唇をかみ締めて、急ぐな、急ぐな、と呟く。夭折に夭折の道があるなら、凡俗には凡俗の道、というのがあってもいい。回り道でも構わない、生きてさえいるのならば。と、自ら言い聞かす。

いまの私には、可能なことを一つ一つ積み重ねることしか出来ない。いまはとりあえず、この最後の砦にも似たページを固持し、続けていくことだ。誰のためでもなく、自分自身のために。