芝居にまつわる偏見

久しぶりに舞台を観た。以前、一緒にやっていた人物が出演するというので、付き合いで観た。

一言で言うと、ダメだった。観劇の間、ため息ばかりがこぼれた。

ああ、ダメだ。この人らは芝居というものがわかっていない、と思った。

 

何がダメだったか。

完成度、という点は問わない。それなりに工夫が凝らされていたし、大きな費用をかけるわけにもいかない小劇団なのだからそんなことはどうだっていい。

また、喜劇か悲劇か、といったジャンルなども問わない。

そんなものはただの好みの問題であり、どうだっていい。

 

致命的にダメなのは、演者が「芝居すること」=「演技すること」という大錯覚に陥っていることである。

 

たとえば、「ぼくはね、悲しいんだよ」というセリフがあるとする。

わかっていない役者というのは、これを「いかにも悲しい」という思い入れたっぷりに喋る。いかに思いを入れるかしか考えていない。つまりテメエのことしか見えていない。そんなものはセリフとは言わない。芝居とは言わない。カラオケ、と言うのだ。

 

芝居とはなにか。

それは「演技すること」ではない。

与えられたセリフを利用して、いかにその場に「生きる」ことが出来るか、である。

 

「その場に生きる」とはどういうことか。

セリフに感情を乗せることではない。ガラスの仮面みたいに役に「憑依すること」でもない。

コトバを目の前の人間の身体に響かせ、また、目の前の人間の発した音を「受け取ろうとすること」である。

 

残念ながら、昨日のエンゲキからは全く、それを感じ取ることが出来なかった。もちろん、全ての場面においてそういう「芝居」が成立する奇跡というのはなかなか起らない。そんなことはわかっているから、私だってとやかく言わない。だが残念なことに、昨日の作品からはそのような「姿勢」の片鱗だに見えなかった。つまり、この人らには志が欠けている、私はそう思った。

 

登場人物が誰も彼も「演技」している。「いつかどこかで見たようなイメージ」「テレビで誰かがやっていたような感情の乗せ方」を、役者が何の疑いもなく、なぞることばかり考えている。だから彼らがどんなセリフを喋ったところで、彼らの「感情のイメージ」(しかもオタメゴカシの)しか見えない。セリフが耳に入ってこない。舞台上で「生きている人間」が一人もいない。

 

芝居のキホンは「セリフを喋ること」であり、「役になり切ること」ではない。

「セリフを喋る」とは、ただ台本のコトバに節をつけて言えばいいというものではない。コトバのイミを正確に伝えることである。繰り返すが、「感情」を伝えるのではない。イミを伝えるのである。そしてイミとは言うまでもなく、「音」で出来ている。つまり、セリフの「音」をしっかりと響かせなければ、目の前の演者は無論のこと、観客にセリフなど届いてこない。

 

コトバをしっかりと立ち上げろよ!といいたい。

コトバが立ち上がっていなければ、どんなに大声出したってダメなんだよ!といいたい。

コトバを物体として存在させろ!と一人ひとりに怒鳴りつけてやりたい。

 

だがもしかしたら、芝居とエンゲキにまつわるそうした勘違いというヤツは、結構、大多数の「演劇者」に共通していることなのかもしれない、という疑いが心をかすめ、およそ絶望的な気分になってくる。たぶん、私が上に述べたようなことを彼らの前で言ったとしても、やはり勘違いされるだけだろう。それだけ彼らの持っている「先入観」は強いと思う。やっぱり自分で稽古場に立ち会い、演者に向き合わなければ、こういうことは伝えられないだろうな、と思う。

 

ダメな芝居を観ると、俺もこのまま死んでいていいのか、という気持ちにさせられる。

 

それにしても・・Yよ、かつて「砂嵐のジプシー」でみせたお前の怪演は、いったい、どこへいった・・!?