演出における座右の銘

そういえば私にも、そういうのがあったな。と思い出した。

旗揚げの時から、稽古場に臨む際には「うわ言」のように呟き続けてきたコトバだ。

 

「演出家は役者にとって抑圧機関でなければならない。

演出家は役者にとって国家よりも恐い存在でなければならない」

 

というのがそれだ。知る人ぞ知る、転位21(現在は新・転位21)の、山崎哲さんのコトバである。

 

なぜ、恐くなければならないか。ふだんの日常生活のなかで、私たちの身体は知らず知らずの内に抑圧を被っている。日常における様々な制度によってだ。だが国家と個人の対立軸がハッキリしていた60年~70年代とは違って、いまや制度は柔構造をとるようになっており、私たちは自分の抑圧された身体について無自覚になってしまいがちである。それゆえ、芝居の場においては、演出家が役者をガンジガラメに監視することで「抑圧」を自覚させ、抑圧に抗する契機を自分自身で見つけ出してもらう。そのために、演出家は役者にとって国家よりも恐い監視装置でなければならない。・・ということになる。

 

20代のはじめ頃は上記のコトバを金科玉条のように考え、「もっと恐く、恐くならないとダメだ」と自分に言い聞かせ、不必要な時にも役者を鞭打ってしまったものだ(笑)。今おもうと、申し訳ない時も多々あった気がする(すまない。アノ人、コノ人)。

 

いま、上記のコトバについて私はどう考えるか。

 

さすがに金科玉条というほど硬直的には考えない。時と場合によっては恐くない、優しいやり方(笑)があったっていい、とも思う。

だが、人間は楽なほうに、楽なほうに流れる動物だ、という実感は若い時よりも強くなっている。役者という人種もそうだ。

放っておくと、楽なほう、楽なほうに流れる。自分のリズムに酔いはじめる。小手先のエンギで「ウケ」を狙いに走る。芝居ではなくカラオケを始める。「今日の私はノッている」などと思い上がりをはじめる。

 

そういう思い上がりを阻止するのは、やはり演出家という立場以外にあるまい、と思う。そういう意味では、やはり演出家にはある程度の「恐さ」が必要なのだ。

 

平たく言ってしまえば、演出家が果たすべきなのは役者にとって緊張感をもたらすことだ。

そのためには、常に彼らのセリフづかいに気を配り、時にはその思い上がりに水をさし、たえず監視されている状態を役者の中に保ってやることが必要だろう。ホント、役者というのはすぐに手を抜きたがるんだから。自分のリズムに気持ちよく乗っちゃってね。

 

いずれにせよ、やはり、演出家は役者にとって煙たい存在であろう。「イイ人」の誉れなんか望んだらダメなのよ、ね。

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コメント: 2
  • #1

    うめいまほ (水曜日, 03 7月 2013 23:22)

    うん。やっぱり、哲さんですね!!

    「抑圧に抗する契機を自分自身で見つけ出して」いきたいと、足掻いていきたいと、改めて噛み締めます。

  • #2

    k-0 (木曜日, 04 7月 2013 02:02)

    そういうことを考えて芝居に臨んでいる人って、当たり前なようでいて、実はとっっっても貴重だと思います。負けるな!!