優れた作品の条件

或る作品が優れているかどうかを見る場合、人によってその判断基準はマチマチであるだろう。

 

「その作品がいかに志を秘めているか」

 

これが私の判断基準である。

 

技量の上手だの下手だのは関係ない。いや、えてして上手になればなるほど、志は忘れられていく傾向さえあるほどだ。

 

この場合の「志」とはなにか。

それは作品の作者が、そのテーマにおいて、どれだけ既製のイメージに反逆しているか、どれだけ皆が持っている安っぽいイメージを破砕しようと牙をむいているか、ということにかかっている。

逆に、テレビや映画でよく観るようなイメージにもたれかかって客の「ウケ」をイヤラシク追求するような作者は私の中では下の下、ということになる。

もちろん、既製のイメージにだって使い用はある。客が作品に入る間口として利用する分には一向に構わない、と思う。だがしかし、飽くまでもそれはウワッ面だけの問題であって、肝心のコアにおいて勢いや熱情、また牙を持っていなければ、そんなもの私は作品とは呼びたくないのだ。ペッ!ペッ!

 

断っておくが、それはエンターテイメントが駄目だということではない。むしろエンターテイメントに果敢に挑戦する人は尊敬に値する、とさえ考える。ただし、彼が本物のエンターテイナーである限りにおいて、だ。人を楽しませるなら楽しませるで、思い切り突き抜けてみせてくれればジャンルなど関係ないのだ。突き抜けてみせてやる、という気概が、エネルギーが、作品のどこか一点でもいい、埋蔵されているのなら。

 

・・まあしかし、作品の受け取り手じたいが、今の時代では、既製のイメージと皮膚感覚でなれ合い、安心していたい、という傾向を持っているような気も、どこかでする。受け取り手の質の低下、というとエラそ気だが、どうかそれが私の杞憂であってくれればいい、と心底、願う。