トモダチ感覚への違和

作品に「癒し」を求める人がいる。

そうでなくとも、いま、世の中には「癒し」というふた文字が氾濫している。

 

「癒し」?そう聞いて、いつも私は首をかしげる。

いわゆる「癒し」によって「癒される」たぐいの「傷」など、もともと大した「傷」でも「孤独」でもないんじゃないのか?

 

「皆がひとつに繋がっている」だの「きみは一人じゃない」だの、そういった類の「癒し」のメッセージ。

 

トモダチ感覚を求める人が、それだけ多いということなのだろうか。私ごときヘソ曲がりは、いつだってそういったトモダチ感覚を前にしたり強要されたりすると、ナニクソ!という気持ちになってしまう。全身に疥癬が走り、吐き気がこみ上げ、存在の底から嘔吐がはじまる。トモダチ感覚を共有できないやつは死ね、死んで頂戴!と言われているような気さえしてくる(笑)。おお、このいわれなき罪悪感よ。主よ、主よ、なぜ我をば見捨てたもう!?

 

トモダチ感覚とは、ひとつの「共同性」である。

目に見えないルールというのがそこには存在しており、そのルールの範囲内であれば、個人個人はお互いを「仲間」とみなす。だが、そのルールから外れた人間に対しては、きわめて冷たい牙をむく。一見なごやかな「癒し」に満ちているように見える空間が、一枚皮をむけばある種の人間を排除する「敵対意識」によって裏付けられているのである。トモダチ感覚ほど恐ろしいものはない、とさえ思う。

 

結局、私が稀代のヘソ曲がりだ、というだけのことだろうか。オトモダチがいなくて寂しいよう(笑)というだけのことだろうか。

 

違う、といいたい。いや、言わせてくれ(笑)。つまり私は、「共同性」を前にして軋みをあげる「個人性」、その「違和感」を、大事にしていきたいと考えるのだ。なぜならば、表現とはそのような孤独な「軋み」を核として産み出されるものだと信じるから。トモダチ感覚に癒される程度の傷や孤独感ならば、いくらでもこの高度情報化社会が慰安してくれるさ。そうじゃないかね?なにも苦労して作品など生み出す必要はないわけだ。自らの手で作品を作り出そうと考える以上、この社会では満たされない絶対的な領域、それを決して見失ってはならないと思う。つまりは、「作り手」であり続けるためには、簡単に癒されたりしてはならないのだ。