戦う、ということ

もはや誤魔化すまい。いま、直面するこの壁と真正面から向き合わなければ、この先、一歩だって先に進むことは出来ない。

 

いま、私が直面している壁とはなにか。

一つの作品を、書き上げることが出来なくなっているというそのことー。

 

・・思えば、私が台本を書き始めた、あの若い時。少し努力すれば、台本などいくらでも書くことが出来るように思っていた。実際、或る一つのインスピレーションさえあれば、いわゆる「書きたいこと」が自動記述のごとく溢れ出てきたものだ。

 

だがいつからだろう。知らぬ内に、私は自分のなかに「表出」の契機を見失っていった。

 

何かのコトバを書き付ける。するともう次の言葉が書けない。書いても書いても虚しさが襲う。自分のこの表出は、いったい、時代のなかで何の意味を持つのか、何を引っ掻くことが出来るというのか、そういった巨大な問いが覆いかぶさり、脱力感無力感に苛まれる。何も書けなくなる、ということの地獄。つまるところ、これが、「才能の限界」というものなのかも知れない、と思い、息が詰まった。どうしようもないじゃないか、おれは表現の場からは退くほかはない、そう思った。

 

それから、およそ10年ー。

私は、「表現」の「ヒ」の字も考えなかった。考えないようにした。特に芝居に近づくのが嫌だった。だがそれだけではない。昔読めた本が、読めなくなった。「この本から何かを吸収してやろう」という野心が消えたからだ。一冊読むのにひどく時間がかかるようになった。この10年・・・過ぎてみればあっという間だが、たぶん、本は数えるほどしか読了できなかったのではないかと思われる。ほんとうに、驚くほど言葉がアタマに入ってこなくなってしまった。自分はどうかしてしまったんじゃないか、と思った。

 

ひどく虚しいが次第に当たり前になってゆく虚しさ。それが日常だ。日常の恐ろしさだ。「私は敗残の身だ」、そう思いながら、仕事だけはせっせとこなした。魂のほうは10年前に死んだまま、身体だけで生きていた。屍のまま生きていた。本当に、そう思う。

 

しかし、ほんの小さなキッカケだった。つい半年ほど前のことだ。自分が作・演出したかつての作品を見返して、自分の中で清算しきれていない時間が蠢くのを感じた。自分のかつての作品を見ながら、「核があるじゃないか」と思った。「伝え方が性急にすぎるだけで、少なくとも生きた血はながれている。最後の作までそれは衰えていない。ああ実に、勿体ない。それにしてもなぜ、書けなくなってしまったのか・・?」

・・しばらくは、過去を振り返る時間ばかりが続いた。仕事が手に付かなくなった。急に、かつて共に芝居をやっていた人間のことが気になりだした。自分のことを覚えていてくれているだろうか、そう思い、ホームページをつくった。もしも誰一人、自分のことを覚えていないのであれば、そこまでの話。腐りきったような未練も断ち切れるだろう、と考えた。

 

そして、今。

最後に会った時から今に到るまで、しぶとくお芝居を続けている人たちと、本当に久しぶりに連絡をとった。あぁ輝いているな、と思った。生きているな、死んでいないな、仮死で過ごした自分とは、大違いだ、と思った。

 

生きることは、戦いなのだ、と思った。

いや、生きるためには、戦わなければならないのだ、と心底、思った。

 

いまも、私には自分の「才能」というのが信じられない。

未だに何を書きたいのか、それが新しく発見されたわけでもない。

けれどもしぶとく努力を続けている人たちがいるように、いま一度、しぶとく戦ってみようか、と思う。

 

コトバを書き付ける虚しさと直面しながら、あきらめずに、書いて、書いて、突破することー