セリフを立たせる、ということ

自分で演出をしてみようとしている人から連絡をもらった。お友達のいない私としては嬉しいことだ(笑)。ついでにだから、久しぶりに我々が稽古で意識していたことを交え、お芝居をつくる、ことについて書いてみる。

 

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ほとんどのお芝居は、「コトバ」で組み上がっている。

だから「コトバ」を立たせなければ、オハナシにならない。

 

「コトバを立たせる」とは、どういうことか。

 

たとえば、

「そこにあるのは本です」

というセリフがあるとする。コトバのイミとしては、これ以上ないくらいにわかりやすい。何の疑問も差し挟む余地はない。「こんなセリフ、簡単だよ」と、誰だって思うだろう。実際、日本語を習得していれば、誰だって簡単に言うことができる。

 

けれども、お芝居の中のコトバとしてこれを立たせるためには、ただ「読む」のではなく、これを、「表現として読む」必要がある。

 

「表現として読む」とは、どういうことか。

 

わかりやすくするために、上のセリフを分解してみるとよい。すると、「そこにあるのは本です」というセリフは、

「そこ」「に」「ある」「の」「は」「本」「です」という風に分節化される。助詞まで含めると話が煩雑になるので、とりあえず助詞を省いてみると、

「そこ」、「ある」、「本」、「です」

というコトバの要素が残される。

この一つ一つのコトバのイミを相手に伝えるわけだが、ただ当たり前に「そこ」と言っても、コトバのイミを伝えたことにはならない。「そこ」とは、「ここ」「あそこ」に対して「そこ」なのであり、「ある」とは、「ない」に対して「ある」のである。同じように、「本」というコトバは「本以外のあらゆる可能性」に対して「本」なのだ。ついでに言えば、「です」は「ではない」に対して「ですである。

 

つまり、「そこにあるのは本です」という一見、単純なセリフは、本当は「ここじゃなくてあそこでもない、ほかならぬそこに、ないのではなくあるのは便器でもドーナツでもない、ほかならぬ、ではないじゃなくて、ですという含みをこめた表現だということになる。まずはそのことを念頭におかなければならない。

 

「そこにあるのは本です」というセリフを表現として立たせるためには、上記のように「そこ」「ある」「本」という単語を一つ一つ切り離し、「そこ」が何をさすのか、「ある」が何をさすのか、「本」が何をさすのか、を、みずから明確に掴み、かつ、目の前の相手に「伝える」必要がある。断っておくが、そのときには「感情」を伝えるのではない。冷静に冷静に、「そこ」を指差し、「ない」のではなく「ある」のだということを相手に説得し、それが「本」である、というイミを伝えるのだ。

 

そしてイミを伝える際には、もちろん、指をさしたりといった身振りが入ってもいいのだが、キホンはコトバの「音」によってこれを実現しなければならない。

コトバの「音」、つまり「そこ」という「音」によって「そこ」を相手に指す、のだ。この場合、経験上、気をつけたいのは、コトバを構成する「音」を、前に吐き出すのを意識することだ。けして自分の口腔内にとどめるのではなく、「前へ出す」と、いうこと。そうでなければ、コトバが重量を持てない。コトバが重量を持たなければ、「わたし」と「あなた」の間で共有できない。つまり、舞台の上で「実在するもの」にならない。基本であるコトバが舞台の上で実在しなければ、いかなる虚構も構築できない。

 

・・・以上が、セリフを表現として読むセリフを立たせる、ということのイミである。実に簡単な覚書のようなものだが、少なくとも私の体験上では、これがアルファでありオメガだ。セリフが一行あるとすると、それに対するセリフをまた立たせる。そのように一つ一つのセリフが立っていったとき、結果として芝居が成立し、結果として演技が成立する。はじめから見栄えを追及したり、役のキャラ作りだとか感情移入だとかにカマけてセリフをなおざりにすると、どんな面白い台本でも詰まらないものになる。逆に、どんなに平凡なやりとりも、セリフが立ってさえいれば芝居の空間はガッチリ成立する。

台本が面白いかどうか、また演出上の工夫がどうか、と問われるのは、それからあと、の問題だ。

 

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どうだろうHさん、少しは参考になってくれると嬉しいのだが・・・