ノッペラボーの時代

広島の呉市で16歳の少女の遺体が山中から発見された。容疑者は被害者の友人と見られる少女をはじめとした7名で、どうやら主犯の少女と被害者の少女の間で何かしらのトラブルがあったらしい。被害者は車の中で殴る蹴るの暴行を受け、死に至り、山の中へ捨てられた。事件の詳細は、未だ詳らかになっていない。

 

今のところ、この事件が人々の耳目をそばだたせた要因は、ふたつ考えられる。

一つには、遺棄されたのが他ならぬ「少女の遺体」だった、という点。

二つには、主犯と見られる少女が、スマートフォンの通信アプリLINEで、自らの犯行を淡々と知人に呟いていたという点。

 

一つ目の「少女の遺体が遺棄された」という点は、まさにそれが「少女」だった、という点がポイントである。つまり未だ社会的な存在になり切れていない、「子供」と「大人」の狭間にある少女が遺体として捨てられる、という事態は、それだけでこの社会に対する何かしらのサインのように見えてくるからだ。言うまでもなく、少女とは、社会的には「弱者」とみなされる存在である。それが殺害されゴミのように遺棄される、ということは、この社会の弱点をにべもなく刺激された、という思いを、無意識のうちにも人々に抱かせるだろう。それは、主犯もまた同じ年齢の「少女」であった、という事実によって、更に倍加される。社会的な弱者が弱者に手をかけた、という事実は、「いったい、真に裁かれるべきは誰か?」という戸惑いを、人々に与えるからだ。犯人が「成人の男」だったりすれば、人々は安心して犯人に「悪」を押し付けることができた筈なのに。

 

二つ目の、主犯がLINEで犯行を知人に伝えていた、という点は、便利なコミュニケーションツールとして若者を中心に流行しているアプリに、およそにこやかなコミュニケーションとはそぐわない「殺害と遺棄」がヌッとカオを出してしまった、という齟齬感がポイントとなっている。まるでゴミ捨てのために地域のゴミ集積所に出向いたら生首が転がっていたーというのと同質の違和感である。

容疑者の少女はLINEで知人に向け「人を殺したった」と書き込み、「喧嘩になって首絞めて骨を折って(遺体を)捨てた」とまるで他人事のように告げている。それを受けた知人の返答もすこぶる妙で、「それで、死体わ?」と聞き返しているのだ。「今日マックに行った」「ふうん何たべた?」というやりとりを交わしているかのような、緊張感のなさである。そしてテレビのコメンテーターはやはりと言うべきか、「悪口を言われたとか簡単な理由で人を殺したり、たんたんと自分のやったことをスマートフォンを使って知人に書き込む神経がわからない。理解できない」と洩らしている。

 

確かに、常識的に考えれば、少女のたたずまいはおよそ「殺人犯」らしくない。「殺人犯」というのは、もっと緊張していて暗く、孤独で、非日常的な存在の筈ではないのか?というギモンが、誰の胸にもよぎる。だが、これは単に「理解できない」と言って済まされる問題ではない。

 

我々は日々、何気ない日常を送っている。街は明るく清潔に保たれ、犬の叫び声すら滅多には聞かれない。しかしこの日常は誰もが思う程には「絶対」ではない。ほんの小さな綻びで、「死」が露出する。

特にこの事件では、「死」はあまりにも唐突に目の前に転がり出てきたという印象を拭えない。それでありながら、強力な怒り憎悪といったテコが欠けている。つまり、少なくとも非日常的なものである筈の「死」が、まったく日常と連続していて、非日常の匂いがキレイさっぱり、拭い去られてしまっている。

たとえば少女が書き込んだ「殺したった」という呟きには、まるで「重さ」というのがない。「殴った」というのと同じレベルで「殺した」というコトバが吐かれている。まるで殺したことなど決定的なことではないかのような温度で、コトバが使われている。これは一体、何なのか。

 

おそらく、彼女(ら)にとって、「生」と「死」の境界線は限りなくゼロに近かったーつまりいつでも「交換可能」なものとして、「生」と「死」が並んでしまっていたのだ。二人の間にあったであろう「口論」などはただの「キッカケ」であったに過ぎない。彼女(ら)のふだん生きている身体の温度が、いつ「死」を呼び寄せてもおかしくない状態にあったのであり、「被害者」と「加害者」という立場も、今回たまたまそうなっただけで、ふとしたキッカケでどっちがどっちに転んでもオカシクない類のものだったろう。このノッペラボーのような関係性は「事件」が起きたから明るみになっただけであり、その本質は既に日常そのものが用意していた、と見るべきだと思われる。首の骨を折ってトドメをさし、遺体を山中に遺棄した段階では「コロシタ」という事実はなにほどの重さもなく、ただの「日常瑣末のできごとの一つ」に過ぎなかったはずだ。少女が多少なりとも「死」の非日常性に接したのは、遺棄後3週間ほど経過して腐乱した遺体を目にした時である。

 

彼女らに向かって「生命の大切さがわかっていない」と非難しても、恐らくは通用しない。なぜなら、多分、はじめから彼女(ら)には希薄な生命感覚しかなかったのであり、そこには「大切」とか「粗末」といった概念が入り込む余地すらなかったからだ。それは彼女(ら)が怠惰だったからでも、教育が足りなかったからでもない。たぶんそのように生命感覚を希薄なまま維持するより他に、現代のわが国の社会はうまく生きていけない構造になっているからだ。彼女(ら)は素直に時代を呼吸し、その要請に従って生きてしまっただけのことだ、とすら言えるのかも知れないのである。

 

まるで、生きながら、死んでいる。死にながら、生きているーそのような身体の温度は、彼女(ら)に固有のものだと考えるべきではない。我々の社会の本質が反映されたものとして読むべきである。この事件は、日常と非日常がノッペラボーに繋がり、「生」と「死」の境界線すら消去されつつある現代日本社会の特質が、先鋭的にあらわれた事件なのだ。読み取るべきは彼女(ら)の罪ではなく、この社会に生きる我々が共通に背負わされた「時代の刻印」である