なんでもない空間

ホテルのロビーで、男がフロントマンを果物ナイフで切りつける、という事件があった。

 

そのホテルの待合には噴水があり、男はその周りに設置されたソファの一つに座り、半日、ぼんやりしていた、のだという。事件が起ったのは、それを見かねたフロントマンが男に「注意」を促したときのことだ。

「こちらはお客様専用の場所になっておりますので」と注意したフロントマンに対し、男は「ここは公共の場所だ。俺が座っていて何が悪い」とやりかえした。「どなたかを待たれていらっしゃるので?」と聞き返したフロントマンに男は逆上。懐に隠し持っていた果物ナイフで、突然、フロントマンに切りつけたのだ。幸い、左腕の軽い切り傷で済んだから大きな事件にはなっていない。

 

この事件を耳にした時、男の気持ちが何となくわかる気がした。もちろん、フロントマンは「職務」を誠実にこなしただけのことであり、非難されるにはあたらない。

 

男が一体、何のためにホテルのロビーにいたのかはわからない。会社をクビにでもなり、途方に暮れていたのかもわからない。ただの避暑かも知れない。だがいずれにせよ、彼はただ、「そこ」「居た」のである。そして、ただ「そこ」「居たかった」だけなのだ。だからそれをトガめられた瞬間、とても理不尽な思いを味わったに違いない。「俺は大声でウタを歌った、というわけでも誰かにカラんで困惑させたわけでもない。ただ存在した、というに過ぎない。なのになぜ、追い出されねばならないか?」・・・この場合、男にとってフロントマンは自分の「ただ、居ること」を、つまり「存在」を否定してくる敵に見えたはずだ。誰だって「存在」を危うくさせられれば防衛本能が働く。この場合も男は自分の存在を脅かす「敵」を排除すべく、隠し持っていた果物ナイフで切りつけた・・・ということになろうか。

 

男を逆上させたものはフロントマン個人というよりは、現在この国に蔓延している、或る風潮だと思われる。

 

たとえばいま、我々は「何でもない空間」というのを持っていない。街の公道はすべて「移動するためのもの」だし、図書館は「本を読み勉強するための場所」だ。公園は「くつろいだり身体を動かすための場所」である。あらゆる空間に「~のため」といったイミが付随しており、およそ「無意味な空間」というものがない。ムダなものがキレイに消去されてしまっているのだ。だから我々は、「何をするでもなく、ただ、居る」ということが出来ない。ホテルのロビーは飽くまでも「人を待つための場所」であり、わけのわからぬ男が半日ボーッとしていたらダメな場所なのだ。

 

いま、この国では、「ただ、居る」ということが許されない。自由でおおらかに見える街が、時にたまらなく息苦しく感じられる事があるのはそのためだ。公園のベンチで休む時でさえ、人は「私は休むためにここにいるのですよ」といった信号を発し続けなければならない。「何のためでもなくただそこに居る人間」は、たちまち善良な市民たちに警戒され、警察に通報され、あげく締め出されるほかはないのだ。そういった暗黙の了解のようなものが、この国には蔓延している。男は多分、日々、そういった「圧迫」を感じ続けていたに違いない。だから「どなたかを待たれているので?」との一言につい、「逆上」してしまったのだ。

 

思えば、昭和の後期ごろまではまだ、「何のためでもない場所」というのが辛うじて確保されていたような気がする。たとえば私が子供の時分は、まだまだ「空き地」というものがいたるところにあった。人はそこで遊ぶことはもちろん、抜け道として利用することも、また「何もしない」でいることも出来た。子供心には、いかにも「ここで遊びなさい」的に遊具が設置された公園よりも、何一つない自由な「空き地」で遊ぶ方が数倍楽しかった記憶がある。その他にも、都市にはイミのない、いわゆる「イカガワシイ場所」が幾つか残されていた気がする。ちなみに、私は数年まえ、中国に滞在したことがあるが、「何のためでもない空間」というのはそれこそいたる場所にあって、都市にいても、妙に居心地が良かったのを思い出す。つまり「圧迫」を感じないのだ。

無意味だからこそ、我々が「そこ」に「居る」ことが許されるのだし、無意味さこそが都市の風通しを良くしてくれる。いま、そんな空間はこの国のどこにも、ない。

 

資本の論理はムダを排除し、いかに価値を生み出すかだけを機軸に動いていく。だが排除されるムダな部分、また「無意味な空間」こそ、実は我々人間の想像力や創造を育んでくれる、一番大事なモノではなかったろうか。フロントマンに切りつけた男の行動は、イミでがんじがらめにされた都市空間への、象徴的な「叫び」のようにも見えてくる。