台本のコトバ

ホントに久しぶりに台本というのを書いている。

分量で言ったらまだ半分くらいだろうか。
今日は、久しぶりに台本を書いている中で、気づいたことを書いてみることにする。極私的でつまらない話だろうから、興味のある人だけ読めばいい(笑)。

 

ついこの間まで、いわゆる詩、みたいなものを連続して書いていたが、台本を書き始めると、とたんに詩めいたものは書けなくなる。自分の中で、明らかに「モード」が切り替わっているのがわかる。詩と台本の最大の違いはダイアローグかモノローグか、という違いだが、もうちょっと言うと、詩のコトバが「自分の心の中にある引っかかり」から湧き出してくるのに対し、台本のコトバは「自分と世界のあいだ」から飛んでくるような感じを伴う。台本を書く、という行為は、明らかに「自己表現」ではない。私は自分を表現するためにコトバを書き付けるのではなく、自分の外側に「世界」を作り出すためにコトバを書き付ける。だからどちらかと言うと、台本を書くモードに入っている時、私の内面というのは麻酔剤を打たれたかのように静かになっている。「私のコトバ」というのは、そこにはない。書かれるべきセリフは、すべて登場人物が呟いてくれるし、それは幾分かは私の分身であるだろうが、私とは「別の人物たち」だからだ。私がやることはただ、彼らの呟きをいかに上手に聴き取るかだけ、ということになる。

 

それにしても、私は相変わらず、前もってアウトラインと主題を決めて書く、というやり方が出来ない(笑)。仮に決めても、すぐに飽きがきて自分でそれをぶちこわす。芝居がライブであるのと同じように、私にとっては台本を書くという作業もライブめいている。書き始めたシーンは当初の予定をそれてどんどんワキ道に入っていくし、そうして気がつけばワキ道のほうが本筋になってしまっていたりする。

 

私のようなエエカゲンなタイプの作者は、書いてみたいシーンや単発的なセリフというのをいくつか書き付けているうちに、やがて「こういう線で作品をまとめろ」といった筋書きが見えてくるので、それまでは辛抱強く、書くだけ書く、といった過程をコツコツ積み重ねることになる。作品の三分の二以上が完成するまでは、登場人物の数も性別も、果てはテーマでさえ、クルクルと変わっていってしまうので油断できない。「果たしてこの木のカタマリの中に仏像は眠っているのか?」と最後まで疑いながらノミを振るい続ける三流彫刻家のようだ、と我ながら思う。

 

いずれにせよ、「もう大丈夫」と思えるところまで漕ぎ着けるには、もう少し格闘が必要なようだ。脳が常時かるい興奮状態に陥っているので、あまり長引くと寝不足になってすこぶる健康に良くない(笑)。長引いたとしても来月までにはケリをつけたい、と思う。