生きにくさと表現の関係

お芝居をする、ということは、舞台の上で「生きる」ことです。

役者は、まさに「生きる」ために、舞台の上で「身体」をいかに使うか、という課題を課されているのです。

 

ここで言う「身体」とは、なんでしょう。

 

芝居における「身体」とは、ただのニクタイ、ではありません。

誰かの視線にさらされて、絶えず抑圧を被っているニクタイ、それが、ここで言う「身体」です。

 

たとえば、人前に出ると身体がこわばり、どうしても言うことをきかなくなってしまうヒトがいます。他人の抑圧を人一倍、感じてしまうタイプのヒトです。

私は、そういうヒトの身体こそ、お芝居に最もふさわしい「身体」だと思っています。なぜなら、抑圧を感じるということは、それだけ自分の「身体」が外部の世界に対して「開かれている」ことを意味するからです。「開かれている」からこそ、敏感に外部の世界を感じ取り、不安になるのです。「自分がいま、ここに存在しているか」ということがです。つまり「開かれている身体」とは、輪郭が曖昧で「危うい身体」ということになります。

 

しかし、勘違いしてはいけません。「危うい」からこそ、かれは虚構と現実のあいだ(つまり舞台)を「生きる」ことが出来るのです。抑圧を感じるからこそ、それを跳ね返そうとする反作用が芝居にチカラをもたらすのです。「自分の存在」が不安だからこそ、けたたましくそこで「生きよう」とするのです。

 

芝居をノーテンキに「自己解放」の場だと勘違いしている人がいるとしたら、正したほうがいいでしょうそもそも「抑圧」のないところに「解放」などあるはずがないのです。

芝居は自己解放の場ではなく、抑圧された身体が、その抑圧に抗しようとする時に生じる「せめぎ合い」の場なのです。それが真剣だからこそ、役者は舞台の上でこの上もなく美しくなるのです。自分で自分を痛めつけること、自分で自分を追い詰めることを知らぬ役者は、どんなに技術があっても、ダメだと私は確信します。

 

さてところで・・・あなたは、人前に出るとき、また、この日常生活の中で、何かしらの「抑圧」を感じますか?・・・もしも感じとれなくなっているとしたら、自分に甘くなっている証拠と考えた方がいいかもしれません。

歳をとって日常に落ち着く、というのならそれもいいでしょう。いわゆる、「丸くなる」というヤツです。けれども、仮にあなたが、舞台に立ったり、表現の場にいるヒトであり続けようとするのであれば、日々の「抑圧」に対する感受性くらいは、とっておいた方がよろしいのではないかと思います。

 

なぜと言えば・・あらゆる表現は、まずは時代の、またオノレの生きにくさを直視するところからこそ、生まれてくるものだからです。ましてや、現代は抑圧が見えにくい、大変に抵抗感の少ない時代です。「生きにくさ」に敏感なことは、役者にとってはそれだけで十分な武器になり得る、大変な「財産」なのです。