崩壊したカゾクとは戦場である

カゾク、というコトバは、実はあんまり好きではない。
このコトバにはちょっとヌカミソくさいところがあって、作品のテーマは?と聞かれた時に、「カゾクです」と答えるのが、ちょっと気が引けるのだ。それよりか「社会問題です」とか「戦争と平和です」とかいう答えの方が、正直、何倍もカッコ良い。カゾクがテーマ、というのは、つまり、「カッコ良くない」のである。
なぜ、カッコ良くないのか。それは、カゾク、というコトバにまつわる「のほほんとした雰囲気」が原因ではないか、と考える。
つまり、大半の人は、カゾクというコトバに「一家ダンラン」とか「カゾク旅行」といった、親密な人間関係の空気をイメージするのではないかと思うからだ。
だから「カゾクがテーマの作品」というと、それだけで、何となくヌカミソ臭さが漂い、観る側からすると構えてしまう所がある気がする。私だったら、「どうせノホホンとした、タッルイ作品なんだろ?」と先入観を抱くだろう(笑)

だが、私はカゾクを書くのが目的でカゾクをテーマにするのではない。
人間と人間のヌキサシならぬたたかい、その戦いを描くために、カゾクをテーマに据えるのだ。
なぜか。
カゾクとは「父・母・子」という役割が共同に営む或る「場」のことである。この役割が正常に機能している限り、カゾクはただのノホホン劇にしかならない。だがこの役割が危ういものとなっている場合、カゾクという「場」は人間性がもっとも先鋭的にムキ出しにされる「戦場」へと変容する。つまり、「役割」をはみだした人間の部分(本質)が、「役割」に復讐しはじめるのだ。「父・母・子」という役割がまがりなりにもあるからこそ、役割を演じきれない生身の人間性が露出する、とでも言おうか。演劇とは人間の「役割」を描くものではなく、ヒビの入った「役割」から漏れ出てくる人間の「生身」を描くものだ、という演劇観を持っている私からすれば、カゾクを書かないためにこそ、カゾクを書く、のである。

相変わらず、救いようのない、ダメ人間ばかりが登場する作品となるだろう。立派な人や優等生というのは、「役割」を忠実に生きられるからこそ「立派」だし「優等生」なのだが、少なくとも私の作品においては、そうした「スバラシイ人々」は登場しない。私自身が「スバラシイ人」でないからなのはもちろんだが、この社会そのものが現在、そんなに「立派」なものでもないよ、という手触りを感じるからだ。崩壊したカゾクを通じて、多少なりともこの社会の「手触り」までも抽出できたら・・と思っている。