あの衝撃は忘れない~転位21の舞台~

世の中には、「一度出会ったら忘れえぬ衝撃」というのがある。人によってそれは一冊の本であったり、一本の映画であったり、音楽だったり、一人の人間であったり、様々だろう。

私にとって「生涯忘れえぬ衝撃」。それは山崎哲率いる転位21が 1980年代初頭に作り上げた「うお傳説」の舞台である。立教大学の助教授が不倫の末、教え子を殺害し、石廊崎で一家心中した事件をもとに書かれた作品なのだが、もちろん、リアルタイムで観たというわけではない。鑑賞したのはビデオで、つまりブラウン管越しに過ぎない。しかし、この作品は決定的だった。ショックでコトバを失う、という体験はそうそうあるものではないが、当時19歳だった私は、まさしく、ヤラれた。骨の髄まで打ち砕かれた。「世の中にこんなにもの凄い演劇があるのか」という驚き。「芝居」というものがここまでのことを可能にするのか、という衝撃。いや、「演劇を越えて演劇を作る」とはこういうことか、という驚き。今に至るまで、小説、映画、演劇、音楽、あらゆるジャンルにわたってあそこまでの衝撃を受けた作品というのは皆目、見当たらない。何が凄いのかって、コトバで説明するのは難しい。が、とりあえず言えることは、私はあの「転位体験」によって、芝居を観る、という経験が、「演じられた台本を観る」、ということなのではなく、まさに現在進行形の「事件」に立ち会う事なのだ、と気づかされた。実際あった事件を元にしているから「事件」なのではなく、芝居そのものが「犯罪的」であり、「事件」なのである(そんな舞台が、今、どこにあるというのか!?)。そしてもう一つ衝撃的だったのは、出てくる役者がことごとく、不安定な身体をそこで晒して、人間というよりも、一個の物体(遺体のような、と言ってもいい)としてそこに「いた」、というよりも「あった」こと。日常的な身体制度から滑り落ちてしまった(ように見える)ヒト達が、舞台の上で鋭利な刃物のような劇の時間を作り出していた。それは本当に、狂気と紙一重、の危うい時間だった。観ている私の身体は、彼らの表出するコトバ、身体のふるえ、を通じて、ザワザワと感電をはじめ、ふだんは決して気づくことの出来ない「身体の暗部」をアブリ出されるような気持ちになったものだ。役者も台本もスゴイが、なにより、役者をあそこまで追い詰める演出が、鬼神のようにモノ凄い、と思った。ほとんど人間業を越えている、と思った。これを作ったヒトは何かとてつもない巨大な空洞をココロに穿たれてしまっているヒトなのに違いない、と思った。観劇後はふだん見慣れている日常の風景が「ビリビリと引き裂かれた感覚」が麻酔剤のように残り、まさしく「コトバを失」って呆然とするほかなかった。難しい言葉で言えばそれは「異化作用」ということになるのだろうが、あれは「異化される」ということを身体で感じ取った初めての体験だった。いや、あれ以来、観てきたあらゆる作品の感銘をことごとく集合させても、「うお傳説」一発の衝撃に及ばない、と言っても過言ではない。

 

私は未だ、そこで受けた衝撃、というのを核に持っている。私がこれまで作り上げたきた作品はことごとく、あの衝撃の余波がなしたものだと言っても過言ではない。そしてあれに匹敵するものを作るのはほとんど奇跡に近いのじゃないか、とすら思う。私は、決してクリアできない奇跡のような水準を、呪いのように頭の上にかけられてしまったのだ、ともいえるかもしれない。

 

あの衝撃は死んでいない。私の中で強く生き続けている。それは創作における私の「故郷」のようなものとして、今もある。決して届かない理想かも知れないが、少しでもあの衝撃に近づけるよう・・というのが、昔も今もかわらぬ、私の「初心」である。

 

 

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