深層における憎悪と愛

今度の台本では少年があらわれる。ここまで正面きって少年を書いたのは、今回がはじめてだ。
そういうこともあって、台本を書きながら、自分の少年時代、とりわけその時のカゾクを振り返ってみる機会が、しばしば、あった。


さて自分が少年のころを思い出すと・・・なんとなく、「コトバや身体の振る舞いを封じられたまま育ってきた」、という思いを味わう。
厳格な家庭に育てられたというわけではなく、むしろ自由な家庭だったのだが、今、振り返ると、いつも「抑圧」されて生きていたな、と思えるのだ。

何に抑圧されていたのか。

父や母がかもしだす、或る「空気」に、だ。


子供ごころにも、父や母のことを「善人」だと思っていた。そして自分は、「善人」である父や母を、どこかで裏切り続けて生きているダメな子供、そのように感じていた気がする。うんと小さい頃からだ。だから、「子供らしく奔放に」という振る舞い方が、できなかった。もしもそのように振る舞えば、「善人」である父や母を傷つけることになる、と感じていた。つまり「イイ子」でなければならない、と、無意識に思い込んでいたことになる。繰り返すが、私の家庭は厳格なルールで縛られた家庭ではなかった。にもかかわらず、私は奔放になってはいけない、と、ほとんど強迫観念のように思い込んでいたのである。

・・・もしかしたら、子供にとっては、厳格な家庭とかルーズな家庭とかいった表層的な区別は、実はあまり大した問題ではないのかもしれない。
子供は目に見えるルールによりも、目に見えない「空気」というものの方に、より敏感な存在だからだ。
たとえどんなに厳格な家庭で育てられても「抑圧」を感じない子供もいるし、どんな自由奔放な家庭で育てられても、心身をガンジガラメに抑圧してしまう子供もいる、ということだ。

なぜ、自由な家風で育てられた筈の子供が、目に見えぬ空気に怯えたりするのか。
父や母の笑顔を壊さぬよう壊さぬよう気をつける「イイ子」になってしまうのか。
それは多分、父や母という存在を信じられないからだ。理屈でなく、身体が恐怖しているのだ。きっと捨てられる」という恐怖。
たとえどんなに「愛」を口にされても、態度で示されても、無意識が父や母を「拒絶」するのである。それはもしかしたら・・・父や母が、子供を無意識で「憎悪」しているからだ。無意識のレベルだから、自分では気づけないのである。

無意識で交わされるコミュニケーションにおいて「愛」が成立していれば、厳格だろうがルーズだろうが親子の信頼関係は成立する筈だ。
無意識のレベルにおいて憎悪が交わされているならば、どんなに上辺は笑顔に満ち満ちた家庭であろうと、本質的に崩壊しているのである。

・・・

さて、今回の台本。
少年はコトバにならないコトバを、じぶんの親に向かって何度も何度も叫ぶことになるだろう。
少年が真に欲しているのは表層的な言語によるコミュニケーションではなく、深層での「本質的なコミュニケーション」だからである。それを奪還することだからである。

そしてそれはどこか、コトバを投げかけ、受け取る、という「演劇のキホン」「演劇の成立」そのものに通底するような叫びなのではないか、とすら思っている。
少年を中心に据えた「崩壊家庭」を描くことによって、同時に、演劇そのものの成立までも問いかけることーそれが次回公演において企てている、まずはひとつの大きな目標だ。