芝居をやるのに資格はいらない

最近はメールにしてもツイッターにしても、コミュニケーションに関してはホントに便利な世の中になったものだ、と思う。


もはや我々は一言も喋ることなく、文字だけで自分の意思を表示することが出来るし、他人の意思を受け取ることができる。職場などの身近な人間関係を持ちながら、同時に遠距離の人々とも日常とは別個のコミュニティーを持つことが可能になった。特に私のように、人付き合いの苦手な人にとってはまさに「願ったり叶ったりの時代」になった、と言ってもいいかもしれない。

しかし、文字による伝達、というのはどうしても「記号的」にならざるを得ない。
本当は文字を発する「話者」というのがいて、現実のコミュニケーションならば息遣いや音声の温度などの「身体的情報」がついてくる筈なのだが、いかんせん、文字だけに頼ったコミュニケーションではそういった「付帯情報」がすっかり漂白されてしまう。記号がダイレクトに届いてしまう。ネット上で行われるイジメはたぶん、現実に行われるイジメよりも何倍も破壊力がある筈だ。ネット上のコトバというのは「記号」として純化されるため、悪意をもってされた発言は、「純化された悪意」としてダイレクトに届いてしまうためである。

そして文字だけに頼ったコミュニケーションに問題があるとしたら、まさにその点にあると思われる。


身体をもった他人、というのが目の前にいないから、メッセージを前にしたとき、我々はあたかもそのメッセージを「自分で自分に言う」かのような位相で受け止めやすい。自分とは別の他人から届けられたメッセージとしてではなく、自分の内部の呟き、と同じような次元で回収してしまうのだ。そうするとどうなるか。自分と他人との「距離感」が掴みにくくなり、自分と他人とを同一視して必要以上に親密にベタベタ馴れ合うか、もしくは激しく近親憎悪を燃やすか、といった両極端に走りやすい。ネットを介した口論が現実の自殺や殺人に結びついてしまうのも、何ら不思議なことではないのである。

さて、そういうことを考えていると、芝居、という二文字がやはり思い出されてくる。
芝居は「身体」を介したまさにアナログ、時代錯誤も甚だしい芸術様式なのだが、その不自由さこそがまさに芝居の存在理由でもあるからだ。特に上述したようにコミュニケーションツールが充実して便利な現代においては。

そしてふと思うのだが・・・芝居というのを「芸術作品」として堅苦しく考える必要は、全く、ないのではないか・・ということ。そこは他のジャンルと比べて、一線を画しているのではないか・・ということだ。もちろん、優れた舞台はどうしようもなく「芸術」としか言いようのない素晴らしいものなのだが、それ以上に、「自分が身体を介して生きていることを確認するツール」、という側面のほうが、実は圧倒的に大きいのではないかと思うのである。


だとするなら、プロであるとかアマチュアであるとかはあまり問題にならないし、自分の身体を持ち、この現在を生きている人間であるなら誰でも参加可能だし、年齢だって問題にならない。思想も関係ない。現代の社会においては感じ取りにくい「自分」や「他人」、その「距離」を、身体を通じて確かめ合ってみよう、どうやって生きているかを確かめ合ってみよう、との気持ちが、カケラだけでもあるのならば、誰に非難されることもいらない。いつやってもいいし、いつやめてもいい、芝居とはそういう「フトコロの深いもの」なのではないのか、と思う。

まだ次回公演がどうなるかわからないし、そのあとがどうなるかは更にわからないのだが、芝居というツールに出会えたことはやはり良かった、と思う。
この先、形態ZEROというカタチが続くかどうかはわからないが、地域の市民劇団でもかまわない、エンゲキというものを「生きることを確認するためのツール」として、また「自分以外の人間を感じ取るためのツール」として、末永く使い続けていければな・・と思っている。

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コメント: 2
  • #1

    細川 (月曜日, 26 8月 2013 23:47)

    同感です。
    私はまさに、生きることを確認したいために、再び芝居関係のことをやり始めた気がします。

  • #2

    keitai0 (火曜日, 27 8月 2013 17:16)

    芝居というのは特殊技能が必要とされない唯一の(?)表現活動だと思います。のみならず、一人で行うのでなく集団で行うもの・・・という特色がありますね。我々人間が「人として生きる」ということに、最もダイレクトに繋がっている活動・・と言えるかもしれません。たとえハデな表舞台にたたなくても、地道に地道に活動を積み重ねていってください。