「あの世」と「この世」の出逢う場所

舞台の上は虚構(ウソ)の世界である。
が、しかし、虚構が現在進行形で作り上げられて行く現場でもあり、その意味では「ウソ」ではなく、「ホント」の世界とも言える。
ウソでもあり、ホントでもある。
「ウソ」と「ホント」が二重になっている場所・・それが劇場である。

我々はなぜ、舞台を観に行くのか。
極端に言えば、いちど死に、そして生き返って現世に戻って来るためである。
一つの虚構が舞台上にあらわれ、時間の経過と共に消滅する。
その時、一つの世界と世界を作り上げていた人物が消滅する。
舞台上にたしかに存在していた世界を観ていた観客もまた、一緒に消滅する。
それは「生きて」そして「死ぬ」ことのシミュレーションなのだ。
ひとつの虚構が演じられ、そして終わる時、観客は演者とともに虚構を生き、そして、演者と共に死ぬ。だがもちろん、そこで終わりではない。虚構が消滅したあとには、演者にも観客にも「日常」というのが待っている。いわば劇場で「死んだ」我々は、あたらしく「生き返って」日常にかえってくるのである。良質な舞台に接すると、我々は少しばかりこの「日常」の垢が洗い落とされ、少しばかり違った視覚を身につけたような気になる。「日常」に揺さぶりがかけられ、活性化させられたように錯覚するのである。
おそらくそれが、舞台の持つ最大の魔力だ。

なぜ、そういったメカニズムが働くのか。
それは、舞台の上が共同の幻想だからだと思う。
個人の、ではない。共同の、幻想、
吉本隆明のひそみにならえば、共同の幻想とは究極的には「他界」のことである。
舞台の上に展開されるのは観客が共同に観る幻想だから、「他界」つまり「あの世」なのだ。
つまり、劇場とは、「あの世」(舞台上)「この世」(観客席)とが出会う三途の河であり、劇場をあとにする我々は文字通り、「黄泉がえり(甦り)」をして日常にかえってくるのである。

さて、舞台の上は「あの世」だから、「この世」との間に橋渡しをされないと、たちまち閉塞する。
閉塞するとどうなるか。いわゆる、「つまらない舞台」となる。「つまらない舞台」とは、純粋虚構として舞台上で完結し、観る者に何一つ迫ることなく、訴えかけることのない舞台のことだ

「おもしろい舞台」になるには、「あの世」(舞台上)と「この世」(観客席)とを橋渡しする回路が必要である。
何がそれを担うのか。
言うまでもなく、「役者」である。なぜなら役者とは、身体をカナメとして虚構と現実を「同時に」生きる者の謂であるからだ。

ポイントは虚構と現実を「同時に生きる」ということである。
だから、「役になり切る」のは間違っているし(どだい、そんなことは不可能である)、かと言って「素のまま」というのも間違っている。
大切なのは、「役を演じながら、同時に素でもある」ということ、だ。
ちょっと複雑に言うと、「役をやっている自分と、それを見ているもう一人の自分を同時に持つ」ということである。

ここを勘違いしてしまう人は物凄く多い。
ともすると舞台上で「役になりきること」ばかりを追及して「あの世」に行きっ放しになってしまう人。
また逆に、「自分らしさを表現すること」ばかりを追及して「あの世」つまり虚構の世界をまったく呼吸出来ない「自分バカ」。

どちらも「舞台を詰まらなくさせるダメ役者」、である。

どうすればダメ役者にならずに済むのか。
もっとも基本的かつ必須条件は、台本のコトバを大切にすることだ。コトバのイミこそは「あの世」(舞台の上)と「この世」(観客席)のどちらにも流通可能な通貨だからである。

つまり、台本のコトバを、「自分いがいの人間に理解させること」「自分いがいの人間に届けること」に気を配りながら、喋ることだ。「この相手にはコトバが通じないかもしれない」という疑いを常に持ちながら、である。クドイようだが、「自分ひとり理解しているつもり」ではダメなのだ。念頭におくべきは自分ではなく、「他人」である。
まずは目の前の演者に、自分の喋るセリフの内容を理解させること。届けること。徹底的にやること!
それが結局は、モノ言わぬ無数の「他人」(つまり観客)へと「届くコトバ」を産み出し、「あの世」と「この世」との橋渡しとなる、つまり、「面白い舞台」を産み出す原動力となるのである。

劇場を「黄泉がえり」の場所として成立させることーなどと言うといかにも大きなことに聞こえるが、その歯車となるのはたった一言のコトバなのだ。
たった一言のコトバから世界が立ち上がり、小さな空間のなかで「小さな生と死」が成立するのだ。