空虚感と共に

いま、私たちが生きているこの時代は、どのような時代なのだろうか。

私がリアルタイムで生きてきた1980~90年代という時代には、辛うじてだが、まだその時代特有の「カオ」みたいなものがあったように思える。

 

が、21世紀を迎えてこのかた、時代はきわめて「見えにくいもの」、「カオのないもの」になってしまった気がする。いやむしろ、「カオがないこと」こそが21世紀の「カオ」なのかもしれない。

 

私は2000年以降を、00年代、10年代、と10年刻みに呼ぶことに躊躇いを覚えるのだが、実感としては2000年以降、何も動かず、変わらず、ノッペラボウの時代を迎え、そして今もその渦中、という感じがする。

 

この社会はほとんど管理体制として「完成」されている。

制度としてだけでなく、世界の隅々にまで拡がった情報化社会としてもだ。

だから、我々はそこにもはや「私個人のもの」を付け加えることが出来ない。私たちが「自分の感性」と思い込んでいるものでさえ、高度にシステム化されたこの情報化社会にドップリ侵されてしまっているのである。ここにはもう「オリジナルな私」など存在しない。現在においては「私」なるものはことごとく、何ものかの「コピー」もしくは「コピーのコピー」たらざるを得ない。自分というものがそのように希薄で消えていきそうになってしまう感覚ー墜落感ーそれが現代に特有の「病」だと思う。

 

ちなみに、最近で言うと秋元康や中田ヤスタカなど、こうした『病』を逆手にとり、あっけらかんと遊んでみせる才能に秀でた人たちがいる。個人的にはナンチャラ48きゃりーなんちゃらなどどうでもいいが、秋元や中田が時代の『ある空気』を掴むことに秀でた優れたプロデューサーである、ということだけは否定できない。太宰が呟いたように、「明ルサハ滅ビノスガタ」が本当だとするなら、現在、最も先鋭的な形でこの時代の「滅ビノスガタ」を描いてみせてくれているのが、彼らである、と言えるだろう。

 

まあそれはさておき(笑)ーそういうわけで、私はといえば、若い頃、何かを積極的にやろうとしても、「腰から下にチカラが入らない」ということがあった。

上記のように、「自分が何をやっても、いつかどこかであったことを繰り返しているだけ」という「既視感」から、逃れられなかったのだ。

何を見ても何をやっても、自分のココロが動かないーまるで老人になってしまったかのような「生き生きした情感の欠如」は、私個人の欠陥だと思っていた。そうした空虚感は、個人的なものではなくて、少なからずこの時代に共通のものだよ」、という見方をするようになったのは山崎哲の著作に親しむようになってからだ。いらい、私はココロの「病」を時代的なものとして見る見方をするようになったが、それは見方が変わったというだけのことで、私の世界感覚じたいは物心ついた頃から変わっていない、ということになる。

 

その「チカラの入らなさ」は、時代を経るごとにどんどんひどくなっていっているように思える。

 

この社会は既に死んでいて、時間だけがなしくずしに流れ、消えていく、という空漠感。

 

ほんの近い過去である1990年代と比べてさえ、私たちの身辺にある情報メディアや生活用品は極めて便利に進化したが、「おれたちはとっくに死んでるよ」という時代感覚だけは、正直に言ってまったく、動いていない、と思える。もちろん、比喩的に死んでいる、と言っても現実には生きているのだし、時代の空虚感と抗いながら何とかちっぽけな生きがいを見出していく、ということは、人間として手放してはならぬ主題だし、私もそのようにして芝居を再開した、ということは前にも述べた。ただし、時代感覚を正直に表現すれば、やはり「おれたちはとっくに死んでいるよ」ということになる。

 

私にはこの時代や社会に対して、「こうすれば救われるよ」という処方箋など作ることはできない。

また、明るい未来のビジョンを示して「みんなで元気を出そうよ」なんて「ウソ」を呼びかける気にも到底、なれない。

ただ自分の感受している世界感覚を純粋結晶させて作品をつくってみせる、ことが出来るだけだ。

 

私が何かを書き始めたのは、この「空虚感」の意味を考え、そのありさまをとらえるためだった。そして逆説的だが、この「空虚感」こそが、いまも私に何かを書かせているように思える。

 

ともかくも、時代や自分に対してウソをつくような、「カラ元気」の作品だけは、決して書くまい、と考える。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    seks telefon (火曜日, 31 10月 2017 22:29)

    trąbecki

  • #2

    sekstelefon (土曜日, 18 11月 2017 00:17)

    heterokarpia