子殺し

台本の書き直しに従って、私の中でも未だ曖昧であった主題が、よりクッキリと浮き彫りになった。

私が書きたかった主題、それは「母の子殺し」である。

親が子を殺す、という事態。
そこには様々な動機があるだろうが、私にとって関心があるのは、日常のなかで緩慢に、しかも親自身にも気づかれぬうちに、なされている「子殺し」である。
もちろん、殺される子の方も、愛している親が自分を殺す、などということには気づかない。

つまり殺す方も殺される方も気づかない内に、なされてしまう「殺し」。

殺す、というのは、なにも包丁で刺したりコードで首を絞めたり布団で窒息させたりといったドラマチックなやり方でだけなされるとは限らない。
親と子の当たり前な日々が、気づかない内にジワジワと子供の首を締め上げる、ということだってあり得るのだ。

殺す、とは、生命活動に損害を加えることである。

身体に損害を加えることによる「殺し」が最もわかりやすい「殺し」だが、身体に損害を加えずして、しかも本質的に「殺す」ということが、親と子の関係では成り立ち得る。
なぜなら親とは子にとって絶対的であり、心身をあげてぶつかっていく相手だからだ。

私たちは、自分自身のカラダとコトバを通じて「生きている」という生命の感覚を得ている。
が、ある種の関係性の中で育てられた子供は、自分のカラダとコトバを獲得することが出来ない。

それはどのような関係性なのか。

子供が自分のカラダとコトバを使うことーつまり自己表現することーに、「申し訳ない」という気持ちを持ってしまうような関係性である。
すなわち親が無意識の領域で子供を否定している場合だ。
そういう親の拒絶を、子は鋭敏に感じ取る。「愛情」のオブラートでいくら包んでみせても子供を騙すことは出来ない。
子供が自分を表現することを「申し訳ない」と感じるのは、親を恐怖しているからである。

自分の感情や思いを口にしたりカラダであらわせば、きっと親に愛想を尽かされ、捨てられてしまうに違いない、という、ほとんど無意識の恐怖。
そういう子供のカラダは絶えず萎縮しており、目の前の絶対的な存在=親のカオ色を窺いながらでなければコトバを発することができない。
このような状態が日常化されてしまうと、たぶん、子供はどんなに健やかに育っているように見えたとしても、本質的に「死ぬ」
自分のカラダやコトバを獲得できないということは、環境を「生きることができない」ということと同じだからだ。

あたかも、お前は生きてはならぬ、死ね!と言われているかのような、無意識の圧力。
もちろん、この場合も、親の方は一生懸命に子を「愛している」つもりなのだ。
だが親が精神的に自立できてない場合、その「愛」は簡単に「憎悪」にひっくり返る。


自分の思うようにならぬことが続くと、「私がこれだけ思ってあげているのに、この子は私の思いにこたえてくれない」と感じ、次に、
「私はこの子に肯定されてない。否定されている」という被害者意識に苛まれ始める。子供の方はそれを敏感に感じ取り、親を肯定してあげるにはどうすればいいのか、まさしくイノチガケで考える。
子を肯定してあげるのが親のはずなのに、親の方が子の肯定を求めてしまう未熟な関係性。

そのような親のもとで育てられた子は、たぶん、とても「親思いの、イイ子」になるだろう。
そして親の方は、「親思いの、イイ子」を周囲に自慢するだろう。そして自分の「子育て」に誇りを感じるだろう。子供の無意識がどれだけ致命的な傷を負っているのか、まるで気づくこともなしに。

そのような親は、「愛情」のウワベとは裏腹に、本質的には、子供を食い物にして自分が生き延びようとしているのだ。
たぶんそれは、その親自身、「愛された」という経験を持っていないからだ、と思う。自分がそうされたことがないから、無条件に子供を受け止めてあげる、ということができないのだ。

 

子は無垢だが子を食い物にする親もまた決して悪人、というわけではない。

そのためもあってか、今回の台本は書きながらどうにもやりきれない思いにさせられることが多い。

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