最後のコトバ

今回の台本で、少年は「抑圧された子供」として描かれる。
抑圧されている、ということは、言いたいことが封じられている、ということだ。


そして今日、ふと、思う。じゃあ、この少年にとって「言いたいこと」とは、なんなのだろうか、と。

 

敢えて単純化してしまえば、
父に対して「死んでしまえ」ということかもしれないし、
母に対して「認めてくれ」ということもあるだろう。
この世界に対しては「さっさと殺してくれ」と感じているかもしれない。それら全てがごっちゃになって、結局、この子は「この世から消え去ってしまいたい」んだろうなぁ、と思う。

 

抑圧。

 

私の体験で言うと、何ものかからの抑圧を長いあいだ被っていると、抑圧してくる相手を倒す、というよりも、抑圧されている我が身の方を滅ぼしてしまいたい欲望にとらわれるようになる。自分を殺すことで目の前の相手もろともこの世界の不快を消し去ろうとするのだ。


抑圧は身体的である。コトバが胸でつっかえる。コトバが言葉にならない。発語できない。発語できない熱が滞って身体を硬直させる。相手を殺すよりも自分を滅し去る方へエネルギーが傾くのは、自分の硬直した身体を壊さなければこの「身体の牢獄」の外へ出ていけないからだ。

 

そしてもう一つ、大事なことがある。

少年の想念が「死」へと傾斜するのは、究極的にはその親が少年の「死」を望んでいるからである。
つまり少年が自らを殺そうとするのは、無意識のうちに親の願望をなぞってみせている、ということになる。

「死を望む」と言うと語弊があるなら、「自己犠牲を望んでいる」と言い換えても同じだ。つまり少年は、自分を犠牲にすることで親が喜ぶーそういう体験を積み重ねてきたために、いつしか、自分を殺すこと=愛されることという等式を自分の中につくってしまっているのだ。だから死んでみせることが究極的には自分の救いだと感じている。いや、自分を消し去ること以外には自分には幸せなど許されていないのだ、とすら感じているかもしれない。たとえはっきりとは意識していないとしても。

 

やがて少年が思春期を迎えた時、鬱屈したエネルギーは家庭内暴力を引き起こすかもしれないし、自殺という形で決着をつけるかもしれない。今回の台本で書いたのはその少し前の段階だから、少年は家庭内で暴力を振るわないし自殺もしない。「愛され」ながら親の手で殺されていくだけだ。

 

「いま、あなたは、何を言いたいか」
たぶん、人は誰でも「最後のコトバ」を持っている。「言ってしまったらおわりだよ」という類の「最後のコトバ」。
大人になるということは、日常にとりまぎれて「最後のコトバ」を忘れていくことだ。また忘れていなければ、うまくこの世を生きていくことができない。
だがそれは忘れられているだけで、人間の本質的な部分では脈を打ち続けているものだと思う。

 

今回、少年と母の関係を書きながら、私は何度も原初的な問いに立ち返った。

 

さて、あなたは、どんな「最後のコトバ」を持っているだろうかー

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コメント: 2
  • #1

    sextelefon (火曜日, 31 10月 2017 23:05)

    Arouet

  • #2

    seks tel (金曜日, 03 11月 2017 17:36)

    Czarnocki