あらかじめ解体したカゾク

今回の台本でキーとなるのは少年の他に、その母である。

母の内部は空洞化されてしまっている。

人間との関係の取り方が、どこか壊れてしまっているのだ。

 

ふつう、私たちは或る特定の人間と長いあいだ一緒にいると、蓄積する時間のなかで少しずつ「親密」になってゆく。「親密になる」とは、相手を許しながら同時に自分を許してもらう、お互いに自分を開き合う、ということだ。夫婦にせよ親子にせよ、いわゆる「カゾク」というものはこの世で最も「親密」な「対」の関係であるから、本当ならお互いがお互いを開いてみせなければならない。なぜならそれが「カゾク」だからだ(もちろん、「親密」になることでめちゃめちゃに憎み合うようになる可能性だってあるが、それもまたカゾクならでは、である)。

 

ところが今回、描かれるカゾクはーとりわけ母はーそうしたことが出来ない。やろうとしない、のではない。やろうとしても「出来ない」のである。

 

自分を開こうとしても開けない。夫に対しても子に対しても、どこか自分の存在を「許されていない」と感じている。でも本当は、「許されていない」のではなくて、彼女自身が「誰も許していない」のだ。だから自分の存在そのものが「許されていない」ように感じられるのである。

 

このような母は、多分、幼い時に「許されている」という実感を味わったことがないのだ、と思う。身体的に記憶が刻みつけられていないから、自分が親になっても子を「許す」また子に「許される」ことが出来ない。そして、「実は自分の方こそ誰ひとり許していない」ということに気づいていない。すぐに「自分は被害者」という想念に傾斜するが、ほんとうは誰よりも周りを憎み、冷酷なのはその母自身、なのだ。関係の中で自分を開いていけないから、関係が発展しない。どこかしら夫のことを「他人事」と見ているし、夫との関係における自分自身さえ「他人事」になってしまう。関係が展開しないから、「カゾク」にまつわる自分のココロが、わからなくなる。「カゾクの一員としてではなく、一人のニンゲンとして見てよ!」ということになる。「カゾク」としての経験値のためかたを知らないため、アイデンティティを「一人のニンゲンとしての自分」という所だけに過剰に求め始めるのだ。

 

一言でいえば「大人になれていない大人」である。

そのような親は年々、増加の一途を辿っているのではあるまいか、と思われる(子はいい迷惑だ)。ちなみに言うと私も書きながらこのダメな母を憎みきれない。その根本的なダメさは私にも通底していると思うからだ。

 

私たちはいま、「カゾク」を作るのに非常に難しい時代を生きている。「個人」としての価値観ばかりが前面に押し出されて、誰も「カゾクとして生きる」、ということにさほど重きを置かなくなっているからだ。そしてその分、社会はどんどん軽くなって、浮遊感を増している。カゾクはいまや或るキッカケによって壊れるのではなく、既にはじめから解体した姿でしか始められないのかも知れない・・というのはあまりに極論だろうか?

 

・・ともかく、書き直しによって子と母の関係性はより大きなウエイトを占めることになった。母役の女優さんにはますます頑張ってもらわんといかんよ(笑)