表現にとっていちばん大事なこと

むかし、ハタチになったばかりの頃、「洗練されたものがいやだ。暗く、ダサイもの、洗練されていないものを私は愛する」と、恥ずかしげもなく公演のパンフに書いたことがある。

さすがに「洗練くらいはさせないとダメだぜ(笑)」と今になって思うが、当時、自分を取り巻く世界やノーテンキな演劇に持っていた反逆心は、今の私にも通底して残っている。

 

演劇に関して言うと、たとえば劇団四季だとかに代表される、「我々はゲージュツ団体ですヨ。あなたのブンカ的教養をお高めください。ユーイギな時間を提供いたしますヨ」といわんばかりの雰囲気をプンプンと漂わせているエンゲキは、生理的に受け付けない。ほとんど「宿敵」と言ってもいい位だ(笑)。あのキレーに刷られたチラシを見ただけで、全身のみならずココロの中にまでジンマシンが出て、首さえくくりたくなる。私はキレーに文化的パッケージをほどこされた「お高いゲージュツ」には、ことごとく吐き気をもよおす。そこには生きにくさのカケラも感じられないからだ。この現代ニッポンのノッペリとした風景を、(おそらくは)我が物顔で歩いているのだろう、スマートでツルツルした人々が、いったい、俺のココロに引っかかる何を「表現」できるというのかね?と思う。

 

私には、「芝居というのはそんなお高くとまったものではなくて、もっと泥臭いもの、イカガワシイものだよ」という思い込みが、抜けがたく、ある。それは私が70年代アングラ演劇から「芝居」というもののイメージを組み立てていった、という個人的履歴も関係あるだろう。

 

しかしそれは芝居に限ったことではない。何かを「表現」してみたい、と思いはじめた10代の頃から、私には「表現」というものは「生きるというギリギリの場所」からなされるのでなければ、ウソだ、という思いがあった。生きるというギリギリの場所は、決して、カッコイイものではない。スマートなものでもない。ましてやセレブリティ達がブンカ教養のために余暇に出かけるキレーな類のものでは、絶対にありえない。それはもっとドス黒くて、原初的な生命力に溢れていて、危険で野蛮で、ブザマで、イビツな形をしている筈だ、と思っていたし、それは現在でもかわらない私の信条である。

 

清貧を説こうとは思わないが、少なくとも魂だけは、「モノ欲しげな貧しさ」を失うべきではない、と思う。表現を洗練させることはそれが見せ物である限り、やっていかなければならないことだが、イビツで荒々しい「核」だけは決して失ってはならない、と思っている。それには自分の生きにくさを手がかりにして、この現代ニッポンのノッペリした風景に飲み込まれてしまわぬよう、抗うことだ。