形態ZEROのお芝居について

最近、ちょっと考える機会があった。

他劇団と名を連ねて人を募集しているのだが、実にたくさんの劇団があるなぁ、と思うなかで、ではこの中に紛れて私たちは何をウリに芝居をぶつのか、何が他の劇団とは決定的に違う所なのか、と考えてみたのだ。

私たちの舞台は別にスペクタクル溢れる演出を施すわけでもなく、抱腹絶倒、誰もが観て笑えるエンターテインメントでもない。
カッコイイダンスがあるわけでもなく、絵画的・芸術的に美しいお芝居というわけでもないだろう。お話の内容は暗いし、決して観たあと「元気になる」類の演劇ではない。

でもただ一つ、これだけは絶対にヨソには負けない、ヨソにはないものだぞ、という点がある。

それは、「演技」については絶対にウソをやらない、ということだ。
ふつう、演劇をやろうとすると、配役があり、その役を「いかに上手に演じるか」ということを考え、演出の注意もそこに集中するだろう。
だが私どもの芝居では、「いかに上手に演じるか」ではなく、「いかにコトバを喋るか」ということを徹底的に洗い直す。

コトバを喋る、ということ。

ほとんどの劇団は、「コトバを喋る」、ということに対して無自覚である。

それは私たちが、ふだん、コトバに不自由せず、当たり前のようにコトバを喋れてしまうためである。「喋る」なんてことは当たり前のことであり、誰もそこに意識を働かすことなく、「演技」ばかりを考えてしまう。

そして私の考えでは、「喋る」ことに無自覚なまま「演技」のソトヅラをつけてしまうと、舞台が「空転」する。すべての劇団がそうだとは言わないが、少なくとも私の観てきた多くの劇団は、ほとんどが「空転」しているものばかりだった。演出的にどんなに工夫をこらしていても、役者がコトバを「喋る」ことに無自覚な舞台は絶対に面白くならない。

コトバと役者の関係は、人が思うほど「当たり前」のものではない。


コトバは役者にとっては「異物」である。「異物」だからこそ、それを転がしたり、投げ飛ばしたり、自分や相手の「からだ」に「引っ掛ける」「傷をつける」「響かせる」ことが、可能になる。だからそこに自覚的にならないと、舞台の上で本当に「生きる」ことなど出来ないはずなのだ。

私たちの舞台は、まさにそうしたコトバと役者の関係から考えるところから始まり、演技論がそのまま「人間が人間と関係を持つとは、生きるとはどういうことなのか」という根源的問いに直結していく・・そういう舞台である。もちろん台本の主題もそういう根源に迫っているつもりであるが、より大事なのは、演技論のレベルでそれを問うている、ということだと思っている。

 

どちらにせよ、いま現在、私たちのような劇団はそうそうない筈だぞ、と私は密かに自負している。

 

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コメント: 2
  • #1

    sex telefon (火曜日, 31 10月 2017 20:37)

    Martenka

  • #2

    sekstel (金曜日, 03 11月 2017 20:10)

    niekonieczność