お前は生きていてはならない

たとえば母親が子供に対して気に食わないことがあり、「そんなことをしているなら家を出る」と「脅迫」する。
それは子供にとって、ほとんどなぶり殺すのと同じ、ひどい暴力だと思う。

子供にとっては、親(ことに母親)は自分の命とほとんど同じからだ。


「あなたが原因で私はこの家を出ていく」というメッセージは、子供にとっては「死ね」というのと同じだ。

こういう時、母には、「こんなに愛を注いでいるのにこの子には伝わっていない。切ない」という思いがある。だが「愛情」の名のもとに行われる暴力は、本当に殴りつけるよりもタチが悪い。「愛情という名目」のおかげで母はあくまでも「無垢」であり「善人」であり、悪いのはすべて子供、という図式がおのずと出来上がってしまうからである。


本当はそんな「愛」など、ただの自己愛に過ぎないのだが、子供からすれば、母の愛情にうまく応えられていない自分の存在こそが「間違っている」と感じられる。


そういう「大人になれていない母親」から育てられた子供は、大人になってからやっぱりどこか、壊れる。少なくとも、壊れやすい人間になる。

生きてこの世に存在していることを、自分で肯定できないのだ。

無意識の領域で「死ね死ね」と言われて育ってきたようなものだから、すぐに「お前は人並みに生きていてはならない。生きてはならない」という自己否定が始まってしまう。


子供は親との関係から、他人との関係の取り方を学ぶ。
親との関係は人間関係の原型だから、そこで「お前は生きてはならない」と刷り込まれてしまうと、親以外の人間と付き合おうとする度、すぐに「自分は存在していてはいけない」と思うようになる。平たく言えば人間を信用できなくなる。信用できないとはどういうことか。自分の存在など、どうせ誰にも認めてもらえるわけがない、と思い込むことである。母が自分を見捨てて家から出ていく・・そのイメージは目の前の人間が自分を捨てて去っていくというパターンとして転写されることになる。かくして「誰も信用できない」というのが、かれの人生の不文律となる。

 

「お前は生きていてはならない」


子育てに自分のプライドを賭けてしまう熱心な親というのは、必ず、どこかで子供を食い殺す。