観劇(サブテレニアンにて)

この間、小屋の下見で興味を持った演出家さんの芝居を観に、劇場へ赴く。我々も使わせていただく小屋なので、その使い方の参考にする、という意味でも、ぜひ、観たい作品だった。

 

作品名は「キル兄にゃとU子さん」

「東北大震災」と「原発事故」をモチーフにしたという作品。フクシマから持ってきた台本ということだ。


舞台中央には宙ぶらりんにされた模型の都市。地面に新聞の切り抜きが敷き詰められ、登場人物は夥しい新聞の切れ端から「消えたU子」の情報を探し求める。
消えた「U子さん」は「美食家」であったり「アイドルのコンサートに喜んで出かけたり」と、様々な顔を持つらしいが統一した姿を見せないため、客は「いったい、U子さんって誰?」と問いかけながら舞台を追っていくことになる。やがて震災の記事があらわれ、被災者がことごとく「U子さん」と読み上げられたりするのだが、観客は少しずつ「ああ、U子さんとは我々のことなのかな」とボンヤリ思わされるような仕組みとなっている。
作品のサブモチーフとしては日本の高度成長の帰結であると同時に現在への出発点ともいえる「大阪万博」への言及がある。その象徴として「1970年の女」が登場し、万博のテーマに乗せて「5000年先の日本人」に向けて1969年に少年が書いた手紙(タイムカプセル内にあるという)を読みあげる。「5000年後のあなた方は便利な生活に囲まれているでしょうが、1969年に生きる僕らと比べた時、果たして、シアワセになっていると言えるでしょうか」といった内容である。
登場人物の間に「会話」はなく、ほとんどが「独白体」で綴られるため、我々は切れ端の情報を頭の中で組み立てて、「いったい、目の前で行われていることはなんなのか」を考えなければならない。そういうタイプの台本だ。

私の見たところ、作者は、「いつ壊れるやも知れぬ繁栄の上に築かれた虚妄の都市よ、宙ブラリになった人々よ、我々はこれでいいのか?」と問いかけたかったのだと思われる。

 

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まだ私がうまく読み込めていないのかもしれないが、とりあえず読み得た限りの内容で感想を書くと、まず、あの大震災および原発事故をモチーフにした作品ということで、どのようなアプローチをかけたのか、なかなか興味があったが、率直に言うと、「いつかどこかで聞いた文明批判の域」をまったく、超えていないように思われた。「あの震災」が我々にとってなんであったか、という問題を投げかけるためには、古舘伊知郎あたりの「ソフト左翼」がいかにも口にしそうな(笑)「文明批判」などでは、とうてい、足りないと思う。震災は震災以上でも以下でもない。端的に生活の破壊である。もともと思想の問題などではないのだ。だからこそ、これを思想の問題として改めて観客に投げかけたいのであれば、型にはまった「文明批判」ではなく、「あの震災および原発事故」を我々の「生活レベルにおいて」生々しく捉えるための、テレビからは得られない「新しい視角」また「批評」が必要ではないのか。それを期待していただけに、私には今作はちと急迫度に欠けるんじゃないかな、と思われた。これがもしも震災直後の現地で演じられていたら、急迫度はうんと増すのかも知れない・・とも思う。だが、少なくとも被災地は我々からは遠く、また、時間的にも「風化」しつつある。恐るべきことに、あれだけの大震災でさえ、被災地から遠い我々にとっては既にあまり「リアルな問題」ではなくなりつつあるのだ。である以上、我々の現在を「撃つ」作品をつくるためには、やはり、そのための「文法」をどうしても見つけ出さなければならないと思うのだ。

・・さて、好き嫌いの好みで言えば、このような独白体だけで行われる作品は私の好みではない。役者の存在が「情報の媒体」にしか過ぎなくなるからだ。それなら文字で読ませたり映像で見せたりするだけでもいいのではないかと思ってしまう。だがそれは好みの問題だから大した問題ではない。やはり、あの震災をテーマに据えて作品を作ることは難しいんだなぁ、というのが最も大きな感想である。近年では我々の生活に一番大きな影響を与えた出来事であるにもかかわらず、我々はこれを「作品」として咀嚼、昇華するにはまだまだ至っていない、ということなのだろうか。私だったらどう書くか・・とずっと考えていたが、どうしても私にはあの出来事を納得のできる作品にする自信も勇気もない。またこういう形式の台本を舞台化することは、演出家としての手腕を大きく要求されることだろう(役者で見せる作品ではないからだ)。その意味では、この作品を舞台化する事に挑んだ演出家の「志」は高く買いたい、と思う。