自分の「外部」

「この人に読ませるなら安心してセリフを任せられる」と思える役者、というのがある。

 

手前味噌で言うなら、真名子美佳さんがそうだったし、葉田野絵弥さんがそうだった。

 

彼女らに共通するのは何だったろう、と考えてみるに、「セリフに対する理解」というのがまず一つ。

誤解されやすいが、「理解」というのはこの場合、文学的な「解釈」のことではない。「身体でわかっているということだ。セリフを身体で読むことのできる役者、という意味である。アタマで解釈するのではなく、身体にセリフを住み着かせてしまう。そういうことは学校が教えてくれるものではない。私が見る限り、彼女らもそれを意識していなかった。だからきっとあれは「天性」のものなのだと思う。身体で読む、とは、コトバを舌の上で転がし、その匂い、感触を味わうということをさす。コトバを解釈する役者は多いが、味わう役者というのは実に少ない。

 

もう一つ、共通点がある。それは、その日の「調子」だとか「気持ちの浮き沈み」などに左右されない役者だった、という点だ。

もちろん、人間だから彼女らの「内部」においてはその日その日の「調子の違い」というのはあった筈だ。だが、芝居とは身体の「内部」で行うものではない。「外部」で行うものだ。

一つのセリフがあるとする。並の役者というのは自分の内部のパッションだとか調子だとかをセリフに乗っけてお芝居に「入って行こう」とする。だから調子が悪かったりすると、たちまち芝居の中に「入っていけない」という状況が生じる。ところが彼女らの場合、はじめから自分のパッションだとか調子だとかは「二次的なもの」に過ぎない。まず存在するのは目の前のセリフであり、それだけが一次的であり、役者にとって生命である。それを「音に出して読む」、純粋にそれだけをする。身体に響かせる。そうしながらその日の調子を「作っていく」。そういうことができる役者だった。だから調子が悪いから芝居がマズくなる、ということなど一度もなかった。信頼できる役者というのはそういう存在をいうのだと思う。それは毎回、どんな時でも舞台の上で「生きる」ことのできる役者さんということだ。

 

大切なのは「役をつくろう」とか「うまく入ろう」とかは考えないことである。

そして、コトバをじぶんの「外部」に響かせること。繰り返すが「内部」に響かせるのではない。きみの「外部」に響かせるのだ。きみの「外部」にセリフを存在させること。重量を持った物体のように、存在させること。生命はきみの「内部」にあるのではない。「外部」にあるのだ。それが役者というものだ。そこから入っていくならどんなに「演技」が下手でも、また「役作り」がなっていなくても、人の心を打つことは可能なのである。