演劇の垢をそぎ落とす

本年度はじめの稽古。

 

参加する役者は全員がズブの素人というわけではない。「場数を踏んだ役者さんたち」である。だが、場数を踏めばいい役者になるか、というと、必ずしもそうではない。むしろ余計な「垢」を帯びて「大切なこと」を見失う傾向にある。

だから、まずは徹底的に「演劇の垢」をそぎ落とすところから始める。

 

セリフを解体してただのコトバにし、コトバを解体してただの「音素」にかえる。まずは音素を自分の前方に押し出す訓練である。

 

つくづく思うのだが、多くの芝居では「コトバ」が聞こえてこない。やっている当人たち同士でも聞こえていないだろうし、観客席にはなおさらである。

 

多分、それは演出家が「さくひん」の「見た目」ばかりを追求して、役者に「コトバを喋ること」の大切さを全くと言っていいほど教えず、何となくの「演技指導」しかしないからだと思う。

コトバを喋る、ということをなおざりにして芝居もクソもあるか!と思う。少なくとも私は、「さくひん」の見栄えを追求するだけでウワっ面の演技しか教えようとしない鈍感な「コトバ音痴」とは絶対に「演劇友達」になどなりたくない、と思っている(まぁ誰も近寄ってこないだろうがね《笑》)。

 

それはともかくー

 

まず第一に、少なくとも舞台に立った上では、コトバというのを当たり前のものと考えるべきではない

日本語の文法を当たり前のものと考えるべきではない。

舞台の上で発される「コトバ」は「日本語」ではない「異邦の言語」、もっと言えば「コトバ」ですらない、「未知の物体」と考えるべきだ。

だからたとえば「こんにちは、あなた」という、一見、簡単そうな「イミの連なり」があったとしても、そのまま喋ることは許されない。

まずはこれを「こ・ん・に・ち・は・あ・な・た」という音素に分解し、一つ一つの音素を発語していく。

「こ」には「こ」の歯ごたえがあり、「ち」には「ち」の歯ざわりがある。発語することによって生じる、「コトバ」と「じぶん」の摩擦熱ーその感覚が大切なのだ。外界の異物と摩擦することで自分というものが確認される。摩擦することなしには「自分」なるものはどこにも存在しない。表現主体である「きみ」の存在はコトバを発さなければゼロであり、コトバを発した「瞬間」に何かしらの「感触」として「そのつど、生じる」ーちょっと理屈っぽくいえば、表現とは「あらかじめ表現されるべき内容」があってそれをあらわす、のではない。コトバを喋っていく過程で結果としてそこに「あらわれる」べきものなのだ。そして何かが結果としてそこに「あらわれる」ためには、舞台の上で役者が「生きて」いなければならない。「生きる」とは自分の周囲の世界を感じ取り、物体としてのコトバを投げ込み、跳ね返ってきたコトバを「受け止める」ーつまり自分の「内部」と「外部」を往復運動することだ。その往復運動のなか以外に「じぶん」なんてものは存在しないのだよ?

 

と、いうわけで本日は役者さんに染み付いた「演劇の垢」をそぎおとし、「ゼロ」に戻す作業を延々と続ける。ときに「言語障害」になってしまったかのように「たどたどしく発語される様子」が何回かあった。いい傾向だと思う。ことばが「たどたどしくなる」ということは、コトバを未知の物体のように扱い、違和感を感じながら接触をはかっている、ということだからだ。つまりふだん当たり前のように使っている「コトバ」と、あらためて「遭遇」していることになる。コトバに対しては常にウブでなければダメなのだ。