コトバを異物として扱え

我々の演劇の基本は、コトバを自分のモノではない異物として扱う、ということである。
自分とコトバとの間に距離を設け、コトバに対する異物感を大切に保持しなければならない。
ところがいくつかの「場数」を踏んで「慢心」を起こした役者というのは、コトバへの異物感をまるで持たない。
あたかもスラスラと演技を交えて自由自在に読めることが俳優としての「成熟」だと思っているらしいのだ。

何度か書いたが、台本のコトバというのは異邦の言語、もしくは未知の物体のごとく扱うべきものだ。
俳優というのは、観念の中で、いちどコトバを忘れなければならない。
まずは抑揚を消して、「物」としての「語」を確認しながら、しゃべること。
「コトバが前に出て行かない」
という現象がよく起こるが、それは知らず知らずの内に、「コトバをてめえのもののように喋る」という演劇のが骨身に染み付いてしまっているからなのだ。まさに骨身にしみている。だから「自分ではやっているつもり」になる。外から注意されてもカラダが受け付けない。自分では何がしか初心者よりも「前に出ている」と勘違いしているからである。冗談ではない。「コトバを喋る」という事に対するオドロキを失っていない初心者の方がずっとすごいのだ。