ひとりで稽古

今日は人が集まらないので、急遽、たった一人の稽古決行。演出家がひとり稽古とはさみしいものだが、前向きにとらえれば失われた体力またコエを取り戻すチャンスだ。ふだんは役者諸氏を「見る」ばかりで、自分ではセリフを読む機会がやってこないのだから。ふだん、役者諸氏をイジメているように、自分自身を訓練してやることにする。

 

肉体訓練しながら台本をコエ出して読む。コトバをたたく、転がす、投げる。粘土でもこね回すように、コエをひねり出す。くぐもったりすればハッキリと「物体」になるまで何度も繰り返してコトバを吐いてみる。

書いた台本のイメージを追いかけながら、何度も何度も舞台に見立てた稽古場を歩き回り、女のセリフをしゃべる。男のセリフをかえす。相手がいると仮定してイメージと「お芝居」するのだ。何度か繰り返している内に、何となく、そこが舞台の上に現出した虚構の「イエ」だと感じ取れるようになる。息子が隠れていたり娘が降りてきたり・・妻が隠れていたり・・といった不在の「イメージ」に向かって、「タロウ」「ヨウコ」「おまえ」と呼びかけてみる。こんどはイメージになりかわって「なあに」とこたえる。ひとりで何役もこなす。ひとり稽古はイメージトレーニングにもってこいだ。雑音がないから集中しやすいのもいい。一通りコエが「物体」として前に出るようになってきたら、今度は「動き」を確認する。これから半立ち稽古に入っていくにあたり、いまいちど、「動き」について考えてみるべきだと思ったからだ。

 

幻の舞台の上を動きながら、考えた。

動くとはどういうことか。

われわれは普段、どのようにして「動いて」いるか。

ただ動く、ということはありえない。無意識のうちに、自分と、自分を取り囲む全世界を「感じながら」動いている。

自分の背後にふすまがあり、前方に扉があり、その向こうに誰かがいる・・・コトバにして取り出せばたくさんのことがあるが、そういったものことごとくを無意識に感じ取りながら、私たちは自分を取り巻く「世界」の「なか」を動いているのだ。

 

ところが舞台となると、虚構の場所であるから我々の世界感覚はどうしても「狭く」なってしまいがちだ。

目の前の人間や小道具などに縛られて、つい感受性が「狭く」なる。だがそれではやはりダメなのだ。ふだん生きている時、無意識に行っている「環境の感受」を、舞台上にいる時は意識して持たなければならない。たとえば目の前の女優を相手にセリフを喋っている時でも、毛糸の編み物を相手に喋る時でも、喋る事だけに意識を奪われてはならない。相手の顔色を読んだりするのはもちろんだが、それ以外の、自分を取り巻く全環境を感受しながら喋ることを忘れてはならない。

胸に手を当てて考えてみるがいい。ふだん我々はどのようにコトバを喋っているか。複雑なことを、どれだけ無意識の内にやっていることか。それを意識すること。「動く」のも同じだ。「動き」とは、「世界」の「なか」を感じ取りながら、身体の位置を変えていくことだ。

 

・・・・

演劇とは生きることに直結しているーだからひとりでも稽古はできる。役者諸氏にも、ぜひ、やって頂きたい(笑)