孤独である、ということ

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日常とは、淡い霞のなかをまどろむようなものだ。
まどろみの中で、皆に足なみを合わせる。


今日、わたしは何人の人間とコトバを交わしたか。
相手が望むであろうコトバを先取りしてコトバを投げる。
のみならず、それに相手が返してくるであろうコトバおよび、
それに私が反応する仕方まで先取りした上で、
コトバを投げる。

つまり、これは厳密には「会話」ではない。

ときに我々は、群衆の只中にありながら、しかもコトバを交わしながら、
なお、一言も人とコトバを交わさない。


孤独である、ということ。
人は孤独を、何かしら「癒すべきもの」であるように考える。

しかし我々は本来が孤独なものであり、
それが「癒された」というのはいずれにしても錯覚に過ぎない。

人はやがて死の寸前に至って、はじめて根本的に錯覚から覚めるだろう。


つまり孤独が「癒されるべき」だと感じられるのは、
我々が無意識のうちに、「死」を遠ざけたがるからに他ならない。


なぜ、「死」が遠ざけられるか。
「死」のまえでは沈黙するしかないためであり、
沈黙のなかで人は「その先」を思い描けないーつまり生きていけないからーさらに言えば、社会を営むことが出来ないからである。


私たちの社会は沈黙を遠ざける。
だから日常はいつまでたってもまどろみの中にある。
時に、まどろみを覚ます一撃・・「小さな死」がやってくる。
人が「傷心」を味わう、もろもろの地上の「不幸」ー


「不幸」「傷心」のなかで、ひとの孤独は、はじめてむき出しになる。
その苦しさの中に居続けることは人間に耐えられない。

だから時にはヒトの不幸を覗き見ることで、
「死」を細切れにしてシミュレートする。
なぜなら、
我々は、苦しさと同じ程度に、
まどろみの中に居続けることにも耐えられないからだ。

それは我々が、この日常のまどろみを、平和を、
「真実から遠い」ものだと、どこかで気づいているためである。

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もしかしたら「傷心」とは、我々が「真実」に近づくために与えられた、
この世で(或いは唯一の)入口であるかもしれない。

 

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孤独とは、癒すべきものではない。

そこから何ものかを「汲み取ってくるべきもの」である。