人間と苦

1
「傷」とは「じぶん」の球体に穴があくこと。
いかなる「傷」であろうと当人にとっては不快なものだが、
生きることにまつわる不快さは、知らずと我々を真実の近くに立たせる。

すなわち、どこにも救いなどないということ。
救いなどないということが、まさしく人間だということ。


誰だろうと死を前にすれば救いなどない。我々はふだん、死を「遠く」にあるものと考えるために、
「救いのなさ」を忘れる。

この豊かな社会が用意してくれる無数の「慰め」が、
我々に「救い」を幻想させる。「救いのなさ」を忘れていられる度合いがすなわち「幸福」の指標であるかの如くに。


だが漠然と誰もが不安をおぼえる。
「何かが本質的に間違えているのではないか?」
生きていることの後ろめたさ。そして夭折した人々に羨ましさをおぼえる。
すなわち、

自分は刻一刻と、罪を犯し続けているのではないか?
やがて大きなものに裁かれるのではないか?

その不安は漠然としているために姿をとらえられない。しかし漠然としているために、消し去ることもかなわない。
人間の抱く漠然とした不安は癒されない。
いかなる「人間」も「理想」も「神」も「真理」も信じることができない状態。
なにものも信じることができない、ということが、人間の不安を産みだす。


問題は何を信じるか、よりも、どうすれば信じられるか。
たとえば生命の危険を感じる瞬間、人間は何かしらの「救い」を求めるだろう。
「信じる」とは「救いを求める」ことである。
つまり、信じることが出来ないということは、救いを必要としていないーもしくは、救いを要するほど死に瀕していないーということを意味する。
そして人は何かを信じることなくして、生命の充実を感じることはできない。



煩悩即菩提。
あの「信仰の書」には、なぜに「もっとも苦しむ者、もっとも貧しい者が幸いである」と書かれたのか。
死に瀕しない限り、もしくは苦の中に放り込まれない限り、人間はなにかを信じることが出来ないためである。
まず煩悩があり、煩悩に苦をおぼえる。苦ゆえにそれを脱したいと願う。
すなわち苦がなければ信仰もない。
人は何かを信じ続けるためには苦しみから解放されてはならない。

6 

我々の課題。

すなわち、苦しみながら同時に苦しみから解放されること。
あるいは、苦しみ自体が同時に救いとなること。