人間関係の密室~「桐島、部活やめるってよ」

近年、話題になった作品でも観てみるか、ということで、「桐島、部活やめるってよ」を観た。
思ったよりは良質。でもねぇ~物足りないわな。

原作を読んでいない上でだが、ざっと印象をまとめてみよう。

このハナシはどうやら「ゴドーを待ちながら」を参照しているらしい。名前だけで決して我々の前に姿をみせない「桐島」は不在であることで世界(高校)を不安定な状態に宙づりにしている。物語は金曜日からはじまるのだが、桐島がいたらしい木曜日までの学園生活では抑圧されていた生徒相互の人間関係の齟齬があらわになっていくというわけだ。「ゴドー」がそうであるように、「桐島」は世界のバランスを保つ「神」や「理想」「希望」「共通言語」などのメタファーとしてどのようにも読める「対象X」となっている。

で、物語の構成は上手い。最後まで隙のない演出で嫌味がない。役者の演技も、邦画にありがちな「臭さ」から許せる程度には免れている(飽くまでも辛うじて、だけど)。こう書くと文句のつけようがないように見えるのだがしかし・・観終わって「う~ん何だかなあ」という感を拭い切れないのだ。ちょっと入り込む余地がない。物語がパズルのピースのように完璧に構成され過ぎていて、スクリーンの「あちら側」で「オシャレ」に完結し、我々の日常に衝迫してくるチカラが足りないのである。

このハナシで重要なポイントをあげてみる。
それは、舞台が高校という「閉鎖された時空間」であるということ。そして人間関係で抑圧されていたものが吹き出して来る展開がプロットそのものになっていること。


われわれが「青春」とやらを過ごす学校というのは、内部にいる者からすれば一つの「密室」のようなもので、閉じられている分、濃密な人間関係の力学が働いている。

大人の社会と同じように「差別の構造」もあれば勝ち組/負け組というヒエラルキーも、むしろ露骨に存在する。その内部にいる者にとっては極めて息苦しい空間である。水面下では生死をかけた戦いが行われており、それは時に暴力となって噴出する(このハナシではラスト近くの「ゾンビによる生徒の殺戮」がその象徴的なシーンである。映画部部長のイマジネーションの中で行われるこの「殺戮」は、この映画のもっとも肝となる部分と言っていいだろう)。

そして人間関係の中で蓄積されていく齟齬というのはわれわれにとって普遍的なテーマであり、そこまで突き詰めることが出来れば、「学校」という限定された舞台がそのまま「世界の縮図」となり、観る者の日常に迫るものとなっていた筈なのだ。筈なのに・・・お人好しの日本人ムービーの性か、結局はどこか「ホロ苦い青春学園もの」でとどまってしまった感が強い。観終わった人のほとんどはこう思うんじゃないか?「青春ってのは惨めな挫折の季節だよな。でも色々あるといったって過ぎてみれば懐かしいもんだ。ホロ苦いけど、輝いてる季節なんだよなぁ、しみじみ」、そして映画館をあとにして、もうキレイさっぱり、忘れてしまう。製作サイドが心血を注いだはずの作品がスクリーンの内部だけで完結する「良く出来た知的パズル」でしかなくなってしまうのだ(もちろん、原作者や監督が単にそれだけを狙ったというのなら仕方ないわけだが)。

せっかくシチュエーションを学園に限定するのだから、もっとぴりぴりした人間関係の緊張を描いてほしかった。もう逃げ出したくなるほどの。吐き出したくなるほどの。殺したくなるほどの。逃げ出したいけど逃げ出せない、そういう「人間関係の密室」を。そうであってはじめて映画部部長が書いたシナリオのセリフ「それでも僕らはここで生きていかなければならない」(うろおぼえ)が生きてくると思うわけさ。観ている我々の日常生活を、そしてハートを「撃つ」と思うのだよ。われわれもまた、大なり小なりそのような「密室」を生きているわけだから。

あと、多分,生徒の役がどれもこれもマトモ過ぎる。キレイ過ぎる。どいつもこいつも欲求不満を抱えていてそれを吐き出せずモンモンとしているわけだから、もっと不健康で、青白くて、錆び付いたナイフみたいな顔つきをしている筈なのだ。そんな連中が、あんなにキレイで健康的な人相してるワケないじゃないか。その点だけでも物語の衝迫度を大幅に殺してしまっているように思う。いいかげん、映画だからといって主要な所に見栄えのいいイケメン・イケジョばかり使うの、よしてほしいよ(笑)