叩かれる映画に傑作あり

もう10年以上前になろうか、園子温がまだカルト的な監督で今ほどの知名度がなかった頃、彼の「自殺サークル」を観て、「これは平成の寺山修司だ!すげえ!ぶっとんでるよ!それに時代をえぐってるじゃないかあ!」と興奮しまくったのを覚えている。で、早速、巷ではどのように受け入れられているんだろうと調べてみると、「奇を衒ってグロイだけの糞映画」的な低評価が多く、「えぇ?なんでそんな感想が出てくるの?一体、どこを観てたんだ?この人たちは!?」と、かな~~り不思議な思いをしたのを思い出す。そして思ったものだ、「芸術作品に限っては、巷の評価なんてまったく、アテにならない。少なくともここ日本においては、巷の評判ってのはあんまり信用しない方がいいぞ」と。

 

私にはそういう教訓があるので、国内で叩かれている映画があると「いやいや、これは結構な確率で傑作なんじゃないか」、と期待してしまう癖がある。「わけわかんない」とかいう感想が多い作品に関しては特に。

 

(ここからは愚痴だぁ~!)

だってねぇ、「わけわかる映画」が多すぎるんだよ、この国は。テレビドラマを2時間ものにしてちょっと「高級っぽく」しただけの映画がさぁ。そしてそれは、やっぱりこの国がほとんど行き尽くした「資本主義」だからなんだと思う。「資本主義社会の解明は商品の分析をもってはじまる~」とマルクスは書いたが、「資本主義社会においてはいかなる芸術も商品としてしか生き残れない」と言ってもいいんじゃないか。映画って領域は特に、だ。だってお金がかかるもの。お金がかかるし多くの人が関わるから、「売れない」とハナシにならないし、多くのヒトに迷惑がかかってしまう。だから、たとえイヤでも「ウケ」を狙わないといけない。媚びないといけない。媚びる相手は「小さな頃からテレビで感性を培っているニッポンの大衆」である(そうそう、スポンサー問題もあろう)。だから彼らに「ウケる」ためには、テレビドラマ的なモノでなければならない。テレビドラマ的な演技でなければならない。かくしてテレビの中も映画館の中も「消化に良くて当たり障りのない表現、絵に描いたわかりやすい演技《つまり、臭い演技》」ばかりが幅をきかす。

 

現代の日本は「価値観が多様化した」などと言われるけれども、決してそんなことはない、と思う。

多様化したのは「わけわかるモノ」の範囲内でだけのハナシ。

「わけわからないモノ」を前にすると、とたんにカラダが拒絶反応を示すし、それが「群れ」になるとほとんどヒステリックに「いじめ」がはじまる。「わけわからんモノ」を寄ってたかって「排除」しようとする。「わけわかるモノ」の範囲内で徒党を組み、「お仲間意識」でホッコリ気分になり、「ぼくらはみんな生きている♪」と歌いだす。

ハイテク化して国際都市化してるというのは見かけだけのハナシで、国民性はちっとも変わらず「タコ壺型」なんじゃないだろうか。関東大震災後に朝鮮人を虐待した時のように、あるいは戦時中にいわゆる「非国民」を白眼視した時のように。

 

最近、「日本人ってサービス精神旺盛で細かな作業に秀でていて、集団行動においては世界的にも極めて優秀」というような、「日本人の誇りを取り戻そうキャンペーン」じみたことをテレビ局がこぞって張ってるみたいに見えるが、優秀なところはそれとして認めつつ、「キタナイところ」ってのもちゃぁんと意識すべきだと思う。外国人を前にした時に「誇り」なんぞにこだわり出すと、またぞろ右ならえ右で「世界に冠たる日本」だなぞと恥ずかしくて背筋が凍るようなことを言い出さないとも限らないのだから。

 

まあハナシは脱線したけれども、こういったハナシをはじめたのも、つい昨日、松本人志の「R100」を観た上で、この映画を叩く人々の声というのがあんまりヒドイ、と思ったから。だってほとんど学校の「イジメ」と同じだものね、あれは。大半の人はあの作品を読み解こうともせずして、自分が「わけわからん」からと言って「みんなもそう言ってるから」と「わけがわからない自分」を正当化し、便乗して喚き散らしてるだけのようにみえるんだもの。別にわけわかんないってだけなら、「私の趣味には合いませんでした」でいいじゃない(世界にはもっと難解でスサマジイ映画がいくらでもあるでしょうに?)。わからんからってヒステリックになって集団に便乗し、それを排除しようとする連中というのはホント、気持ち悪いと思うのだ。

 

わたし的に言うと、「R100」は決して駄作などではない。むしろ、邦画の中では近年稀に見る傑作、だと思う。かく言う私だって、完全に理解しきれたか自信がない。比較的わかりやすかった「大日本人」よりも難解度が増している。これ見よがしではなくなっているからだ。だがすごい映画だ。奇想天外で、本当にワクワクしたもの。で、いろいろ書きたいことがあるんだが、今回は上記のような思いが止まらなくなり、ついつい前置きばかり長くなってしまったから、作品そのものについては他日、まとめて書こうと思う。

ともかく、「叩かれる映画に傑作あり」という私の信念(?)は、いよいよ強くなったことだけは確かだ。