オヤジ達の無意識~「R100」

さて、松本人志の「R100」。一見、難解にみえる本作だが、決して支離滅裂な映画ではない。以下、私のとらえたこの映画の本質を述べていこう。今回はちと長文になる予定。

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この作品は、バブル前夜からバブル期にかけてとおぼしき「一昔前の日本」を舞台にして描かれる。
浮かれ騒いでいた筈の時代だが、空気感は映画全編を通じてドンヨリと重い。
それはこの映画が「一人のくたびれた男」をフィルターとして作られているからだ。

「大日本人」の時も感じたのだが、「この監督って、いい場所をロケ地に選ぶよな~」と思う。心に引っかかってくるのね、懐かしくて、どことなく寂しげで。

「くたびれていて、地味な建物や光景」・・・もうすぐ廃墟になってしまいそうなそれは、監督の中にある「心象風景」なのだ。そのせいか、どんなにバカげたことがスクリーン上で行われていても、松本映画は意外と「抒情的」だったりする。物語が、ではない。スクリーン全体から漂う「体臭」が抒情的なのだ。こういうのは狙ってやるものではなく、「意識してなくてもつい、出てしまう」たぐいの体臭だ。「心に廃墟を持つ者」でなければ出せない体臭である。


主役は、「くたびれた一人のオヤジ」。
「取り残された風景」と、「一昔前の日本」と、「くたびれたオヤジ」・・・この取り合わせだけで既に、何かを語りかけてくるようではないか。

「SMクラブ」が前面に出て来るからといって、「SM」それ自体にこだわると作品の本質がみえてこない「SMの本質が描けていない」などという批判があるが、当たり前だ。監督は別にはじめから「SMの本質」など問うていない

この映画にあらわれる「SM」はわざと軽薄な「マスイメージとしてのSM」として描かれているが、それで十分なのだ。問題はそれをスプリングボードにして「何が描かれているか」である。

まず言ってしまおう。

「R100」の主題は「この国のオヤジ」、そしてサブテーマは「家族」である。

主人公・片山は高級デパートの家具売り場に勤めるサラリーマンである。彼には妻と一人息子がいるが、妻は重病を患って病院のベッドに寝たきりの状態だから、片山は男手ひとつで息子を育てている。
そんな彼には密やかな楽しみがある。極秘のSMクラブ「ボンデージ」でのSMプレイだ。
このクラブは店舗内ではなく街の中でSMを楽しむことが出来るという変わったもので、片山は様々な仕方で(しかも公衆のまえで)虐められ、そこに快楽を味わっている。はじめはルールに則ったプレイを提供してもらっていた片山だが、やがてSM嬢が彼の仕事場や家庭内に現れ、所構わず彼に鞭をふるうようになり、何気ない日常が脅かされはじめる・・・

といったところが物語の前半部で描かれるアラスジだ。
前半40分程度は実に丁寧なつくりで、シーンの積み上げ方から登場人物の描写まで、いうなれば実に「本格的」で安定している。ほとんどオーソドックスなヒューマンドラマではないかとさえ思わせる出来だ。「こういうノーマルでいかにも映画らしいドラマなんて、撮ろうと思えばいくらでも撮れるんだぜ?」と言いたげな監督のカオが目に浮ぶ。実際、やろうと思えば最終的にこの物語を「家族愛を描いた感動作」にする事だって出来ただろう(もちろん、この監督がそんなもので満足するワケがない)。

まず、片山はMだとされているが、それは何を意味するか。

片山は女王様からいろいろな仕方で虐められる。
虐められることによって快感を得ている。
虐められるとは、小さな「死」を味わうことである。
どうして、「死」が快感であるのか。お金を払ってまでして小さな「死」を味わいたいのか。
それは日常生活が快楽から遠いからである。彼にとって砂を噛むような毎日だからである。
このまま日常に埋もれていると、生きているという感覚を失う。だから小さく「死ぬ」ことで自分の生を活性化させたいのだ。
虐められて快楽を味わうたびに片山のカオはCG合成で膨らむのだが、それは「自分」が膨れていくということをあらわしている。
家と病院と職場を行き来するだけの日常でやせ細っていく「自分」を膨らませる。その瞬間を求めて、彼は女王様に虐められるのだ。

だがこの映画では、そうした快楽が「孤独」でしかないことも描かれている。
片山の顔がCG合成で膨らんだとしても、スクリーンのこちら側の私たちはそれを「共有」することができない。
いや、スクリーンの向こう側でさえ、片山と快楽を共有する相手は存在していない。妻も子供も職場の同僚も、誰ひとり。
片山は誰とも共有しない快楽をたったひとりで味わっている。


つまり彼は「この世の現実では生きている実感を得られない」のだ。彼が快楽を得るのは「現実」ではなく、SMプレイという「虚構」(しかも誰とも共有できない)の世界だけである。

これは恐ろしいことではないのか。

家族と顔を合わせている片山、同僚と顔を合わせている片山、お客と顔を合わせている片山‥‥‥そのいずれも、彼にとっては「本当の自分」ではなく「屍」と同じなのである。小さな「死」を味わうことでしか「生きている」という実感を得られなくなっている男‥‥それが、片山という男であり、ひいては監督の捉えた「この国のオヤジ」の姿なのである。そら恐ろしいことだが、それが現実だ。物言わぬこの国の「オヤジ」達は、多かれ少なかれ、皆そのように生きている。まるで既に100歳生きてしまった老人のように、無感動な顔で、「でも何かが間違えている」というかすかな不安に慄きながら、せっせと働いている・・・

「R100」という題名には、そういう寓意が込められているのだと私は思う。

でも監督は、決して上から目線で片山を裁こうとしているのではない。
片山の後ろ姿に漂う虚無的な「かなしさ、さびしさ」みたいなもの、それと歩調を合わせるように、映画を撮っている。「おれもおまえもあんたらも、この国に生きている俺たち男は、いま、こんな顔で、こんな惨めな姿で、たまにちっぽけな快楽で自分を慰めながら、こんな毎日を送ってるだろう?」と問いかけてくるかのようだ。そしてどうすればここから抜け出せるか、答えはどこにもない。「家族との時間を大切にしろ!」と教訓を垂れることはたやすい。だがそんなたやすい教訓でどうにかなるものなら、はじめから今のような状態には陥っていないだろう。大切にするも何も、「家族」は実質上、既にぶっ壊れてしまっているのだから。

ここで、「家族」というもう一つのテーマが浮上してくる。「R100」は「家族劇」でもあるのだ。
片山の妻は重病で病院に寝たきりの植物人間となっており、コミュニケーションをとることができない。片山は実質、シングルファザーとして息子と二人暮らしをしている。

妻の病院には毎日のように足を運び、息子の誕生日には仕事帰りにケーキを買っていったりと、「ちゃんとした夫」、「ちゃんとした父」をやっているように見える。誰の目にも片山は立派な夫、父だとうつる。だが、そういう「表の顔」とはうらはらに、片山はちゃんと「やることをやっている」。

息子の誕生日にも女王様とアポをとりSMプレイを堪能したあとでケーキを買っているし、妻の見舞いに行った時も、病床をあとにして急ぐような足取りで女王様とのアポ現場にゆき、鞭で叩きのめされ、恍惚となっている。

要するにこの男にとって「いい夫」「いい父」という役柄は「きわめて息苦しいもの」なんだな、とわかる。もちろん、世の「オヤジ」達と同じように節度を守って快楽を味わっているから、露骨に家庭を崩壊させるようなことはやらない。しかし「心ここにあらず」で「父」や「夫」を演じている以上、「家族」は片山にとって本質的には崩壊しているに等しいのだ。

さて、「家族の主題」にまつわるエピソードとして描かれるシーンで、ドキッとするような、すごくリアルなシーンが二つ、ある。

一回目は、女王様に目隠しをされて鞭で叩かれているありさまを、病室で寝たきりの妻に「あなた?」となじられ、凍り付くシーン(実際は妻は寝たきりで声を出してない)。
そして二回目は、同じプレイを自宅で息子に目撃され、「パパ、何で叩かれてるの」と問いかけられるシーン。
どちらも片山は「アッいけない!」と当惑するのだが、やがてそのシチュエーションの背徳性に興奮し、快感を味わってしまう。
この二つのシーンはグロテスクで、観る者をギョっとさせる。こういうところに、この監督の才能がギラリと片鱗をあらわす。

どうしてグロテスクかと言うと、これらのシーンは「家族の消滅」を物語っているからだ。
妻や息子のいる空間(病室や自宅)から離れた場所で行われている限り、どんな背徳性も「虚構」として済ますことができる。だが妻や子供と共有する空間で「それ」が「目撃」された瞬間、「虚構」は「現実」を食い荒らし、「家族」の枠組みは崩壊する。「妻」のまえで「夫」の枠が壊れ、「子」の前で「父」の枠が崩れおちる。

「ひっそりと溺れて楽しんでいた快楽が、やがて滲むようにして家族の枠組みをおかす」という現象は、極めて暗示的だ。この国の「家族」は欲望を煽り立てる消費資本主義社会の発達によって、消費者というバラバラな「個」に解体されてしまったという歴史を持っているからだ。だがそれだけではない。さらに重大なのは片山が「家族の崩壊」を前にして性的興奮を感じてしまっている点だ。


なぜ、興奮するのか?

それが無意識において望んでいたことだからである。


無意識を抑圧したまま「いいお父さん」のフリをし、「いい夫」のフリをして妻のお見舞いに足しげく通ってみせていた片山・・・カタチだけの屍のように。だが何気ない日常の裏側で、本人にも気づかれないまま、充たされない思いがじりじりと彼の内部を焼いていただろう。


「こんな寝たきりの妻などいなくなってしまえば・・」
「生活を縛り付けるこの息子さえいなくなってしまえば・・」
「自分を縛る家族など消滅してしまえば・・」


それが片山が抑圧している「おそるべき無意識の声」だ。もっとラディカルに言ってしまうと、この国のオヤジ達を深い所で捉えている無意識の声だ。


「ああ、おれはもうくたびれた。この暮らしに何の意味があるだろう。自由になりたい。父をおりたい。夫をやめたい」


表面上は真面目な顔をして時間通りに一生懸命働き、幸せそうな家族を築き、コツコツとこの国の繁栄を支えてきた、我が国の不特定多数の「オヤジ」達。このものがなしき現実。

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さて、物語は後半からヒューンマンドラマのタッチをやめてB級テイストのドタバタアクション劇となる。
主題としての「核」は上に述べた通り、「きわめて真面目で、深刻な(?)オヤジ達の実態」なわけだが、それを「深刻なカオ」で提示して終わらせないところが松本らしい。

後半のドタバタ劇は「アメリカ人の大女が出て来る」という設定以外は特に意味もなく、純粋にB級アクション映画のハチャメチャな展開を楽しめばいいつくりになっている。古き良き昭和の大衆映画へのオマージュなのか、カーチェイス(しかもダウンタウンブギウギバンドの歌謡ロックがバックに流れるのね《笑》)、拳銃、手榴弾、バイクにまたがった謎の助っ人など、「バカバカしいがどこかで観た懐かしい展開や舞台装置」が、怒濤のごとく凄まじい勢いで目の前に繰り広げられる。渡部篤郎が出て来るシーンも特筆ものだ。あの糞真面目な演技は真面目くさった映画だとそれこそ「臭くて臭くてどうしようもない」のだが、このようなB級テイストのどこかアホ臭い展の中におくと、かえって「いい味」になる。主役の大森南朋もそう。松本はこれら「プロの俳優」の「いかにもな演技」を、上手く掌の上で転がしてみせた、と思う。「後半の丸投げ的安っぽい展開にヘキエキする」だってぇ?何言ってんのよ、映画って虚構だよ。虚構だから何でもありなんだよ。遊びなんだよ。みんなそれを忘れていないかい?この「安っぽさが持つ自由」って今の邦画では貴重だよ。物語の破綻などクソ食らえ、と言わんばかりに、矛盾も何もかも蹴飛ばす自由さでカメラをまわせる監督って、そうそういないよ?貴重なんだよ?少なくとも私の観た限り,自由に見えてチットもハジケ切ってない「バトルロワイヤル」なんかより、全然ぶっとんでて面白かったぜ?

で、アメリカ人の大女にケチョンケチョンにやっつけられ虐めぬかれる最後の展開となるわけだが、ここには「アメリカを前に手も足も出ない情けない日本」という事のメタファーももちろんあるだろう。だがそれよりも重要なのは、片山が多分、あそこで「本当の死」を迎えた、という事だ(作品の中では直接は示されていない)。あそこで流れるベートーヴェンの「歓喜の歌」は、彼が最期にやっと手にした「生きている感覚」をあらわしている。もちろん死んでしまうわけだから客観的にはバッドエンドなのだが、本人の中では申し分のないハッピーエンドなのだ。現にみよ、カメラは次の瞬間、子供を宿してニコニコ笑っている彼の姿を映し出すではないか。男が子供をはらむ、というありえない出来事は、片山が死に際して最後に叶えた「夢」(イリュージョン)なんだと思う。男が逆立ちしても女に勝てない事って、「子を孕む」ということなのだから。或いはこう言ってもいい。片山は最後、「男」であることをやめた。「父」をやめ「夫」をやめ最後に「男」をやめたのだ、と。そしてこれまでに論考してきたように、片山とは「我が国のオヤジ」のことである。「我が国のオヤジ」達は高度経済成長の果てのバブル、そしてバブルが弾けてくたびれ切ったあと、もう「男」であることの重圧から下りたいのかも知れない。そしてその先の未来がどうなるか。映画は語らない。私たちがこれから生きていく社会が、その答えなのだ(それにしてもラストの片山の笑顔は、なんと清々しいことだろう。この映画の中で唯一、あそこでだけ、幸せそうで自然体な笑顔を浮かべている)。


片山は最後、彼なりの幸せを手にしたが、あのラストに私たちはなにを思えばいいのだろう。絶望なのか、希望なのか。絶望とも言えるし希望とも言える。その両極が重なりあう場所が、私たちの「現在」だ。

とにもかくにも私たち男は、今日もこのヘンテコな国で毎日を追われながら、それでもなんとか、生きている。

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松本が描き出したこの国は決して希望に満ちているとは言えない。だが、にも関わらず、この映画は私を元気づける。「虚構」というものが本来持っていた筈の(そして近頃、メッキリ弱ってしまっていた)チカラを感じる。なにより邦画の「予想ライン」を優に突破する瑞々しいに溢れているー


だから、やっぱり、言いたくなるんだなぁ。

この映画は、深刻で軽薄でハチャメチャで抒情的で問題作でそして自由な、傑作」である、と。