彼らを踏み潰した社会の無意識~「エレファント」

ひたすらシリアスなものが観たくなり、ガス・ヴァン・サント監督作「エレファント」を鑑賞した。

1999年にアメリカで起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」をもとにつくられた、2003年度カンヌ映画祭パルムドール、監督賞ダブル受賞作である。

 

ああ、ついつい三回、繰り返して観てしまった。これは大傑作。やっぱり映画ってこうじゃなくちゃぁ、という作品だった。何が凄いって、あの事件の本質みたいなものを、物語や論理で説明するのではなく、映像そのもので表出してしまっているのがスゲエ、のだ。実に寡黙な映画。だが無意識に語りかける情報量は圧倒的。これは感性を全開にして「感じる」ための映画だ。パルムドールはダテじゃない。

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この作品にはあらすじと言えるようなあらすじはなく、事件の起こった「或る一日」を、複数の生徒を入れ替わり追いかけながら淡々と描き出してゆく。

画面に写し出されるのは生徒たちの日常である(カメラはトロくてダサいためにクラスの女子らにバカにされている少女や、無口にひたすら写真撮影にのめり込み続ける少年、一見楽しげに過ごしながら昼食後にはトイレで食べたものを吐き出し、ダイエットに励む少女ら、酒飲みの父親のせいで遅刻し、校長の冷たい視線をあびる少年・・・などの、多分どこででも見られるような平凡な高校生らの姿をとらえる)。

約80分ある本編のうち、ほとんど1時間あまりにわたって、いわば「当たり前の日常」が起伏もハッキリとした物語もなく、延々と続くわけだ。そしてその日常は一発の銃声からはじまる無差別大量殺人によって、唐突に断ち切られる。

 

映画の終盤にいたって生徒たちが次々とショットガンやライフルによって撃ち殺されていくシーンは確かにショッキングだ。それまで動きのなかったハナシがいきなり動き出し、あっという間に地獄絵図が展開される。その落差が作品にインパクトを与えている。

だが、この映画で本当にすごいのは、そうした「非日常シーン」そのものではない。一見、地味で退屈な60分あまりの「日常シーン」なのである。

 

日常日常と書いたけれども、この映画で監督の描きだした「日常」にはどこかしら「狂気」が潜んでいる。

極度に近くのものにピントを合わせたカメラワークは遠方の光景をボカしてしまうため、真っ白な高校内部がまるで「シャイニング」の巨大ホテルのように夢幻的なものにみえてくるし、思い出したようにながれるベートーヴェンの「月光」や不協和音、いきなり挟み込まれる「どん底のように深い青空のカット」は、映像に陰鬱な圧迫感を与える。それら細かで緻密な演出によって、「ありふれた高校の日常」にどこか非日常的な匂いが醸し出される。まるで全てがこれからはじまる「地獄絵図」を予期しているかのようにだ。この映画は一見、そうと見えるような「ドキュメンタリー」ではない。細部にわたって作り上げられた「映像芸術」なのである。それは不吉だが繊細なガラス細工のように美しい。

 

また、俳優(高校生を演じているのはすべて素人)のセリフは定められた幾つかをのぞいて、ぜんぶアドリブで撮られているという。

この監督は「言葉」によって表現できるものなどタカが知れている、ということをよくわかっているのだと思う。だから台本はごく必要な分量だけで、あとは素人の高校生らに自由に「おしゃべり」をさせた。そのため、ほとんど無意味にみえる言葉ばかりがならぶ。だがこの作品の中ではなにが語られていても、どの何気ないシーンも、すべて「あの事件」を構成する無数の出来事の暗喩にみえてくる。

「言葉」が二次的な意味しかもたなくとも、音楽や映像、カメラワーク、無言の「素人たち」の無表情が雄弁に迫ってくるのだ。「言葉」以外で語る、ということ。これぞ映画、だと思う。

 

この映画は大量殺人事件の原因はこれだ、と言いもしないし、犯行に及んだ少年らの内面を描くこともしない。そういう意味では何も描かない。だが、観終わったときに静かに語りかけてくるものがある。言葉で語りかけてくるのではない。80分間の映像体験そのものが訴えるのだ。彼らはみな同じ平凡な高校生に過ぎず、誰が犯人になってもおかしくなかった。彼らはともに『或る大きなもの』に呑み込まれた共通の被害者なのではないか」。

 

彼らを飲み込んで奈落の底に奪い去ったのはなんなのか。

高校の中までも犯している「格差社会」そして「差別の構造」なのか。「管理教育」なのか。「イジメ」やそれを見て見ぬフリする「傍観」なのか。少年期にありがちな「自我の焦燥」に過ぎないのか。成熟し切った社会の落ち込んだ「閉塞感」なのか。

映画は答えを用意してくれない。

ただ言えるのは、彼らを飲み込んだ「或る大きなもの」は、社会の、時代の巨大な無意識であり、アメリカと同じ道を走っている私たちの国もまた無縁ではない、ということだけだ。私たちもまた、社会の無意識という「巨大な象」に、いつ踏み潰されてしまってもおかしくない「いま」を生きているのだから。