説明過剰は作品をダメにする~「明日、君がいない」

ガス・ヴァン・サントの「エレファント」が良かったので、その影響を受けていると言われているミュラリ・K・タルリ監督「明日、君がいない」を観てみた。この人はガス監督の「お弟子さん」みたいな人らしくて、さぞかしいいものをつくるだろう、と期待して観た。

 

結論から言おう。

これは駄作。

「エレファント」が「映像芸術」だとすれば、「明日、君がいない」は「テレビドラマ」。もちろん、「テレビドラマ」だって悪くないが、あざといよ、狙いすぎなんだよ、さもしくてみてらんないよ、というのが感想。これ、巷の評価高いけど、でも駄作。

 

物語はある高校の一日を追いかけたもので、「エレファント」と同じように多人数の視点を入れ替えながら、それぞれの登場人物が抱える青春ならではの悩みを描いてゆく。そしてそれらの悩みが集約されるかのように、2:37分、ひとりの高校生が孤独感から手首を切って自殺してしまう~というあらすじ。

 

まあ出てくる高校生ことごとく「大きな悩み」を抱えているので、誰が自殺してもおかしくなく、作者は「或る生徒の自殺」を、これら「悩める若者ら」の行き着いたひとつの象徴としてこの作をつくっているのがわかる。いわば「青春へのオマージュ」というのかなあ(まあその意図自体は別に悪かぁナイんだけどね)。

 

観ていてイライラしたのは、この映画、やたらと「説明的」なんだよ。生徒一人ひとりの「悩み」をいちいち説明するの。こっちに想像させてくれないの。しかも悩みの原因ってのが「同性愛」「近親相姦」「障害を抱えた身体」・・・といった「いかにも悩みでござい」といった理由のオンパレードで、いちいちオドロオドロシイだろ?(笑)。そんで最後は「手首を切っての自殺」でしょう。なにもかもが記号的なんだよ。

演技もねぇ、説明的演技で、一番ダメなパターン。「悲しい時は悲しげに」、という「誰がみてもわかりやすい記号的演技」ね。「想像力を駆使して役者の表情や身体を読み取る」ってことを許してくれないのね。ぜんぶ押し付けがましく演技で説明しちゃうから。

 

あと、最後の自殺シーンは手首を切るまでの間にさんざんもったいぶるんだけど、自殺しようとしてる生徒がずーっとすすり泣いているのね。ほらほら、なんか「いかにもテレビでありそうなシーン設定」でしょう。死ぬときにすすり泣きながらもったいぶって手首を切る・・・てさぁ、本当に死ぬ奴はそんなドラマみたいに死なねえよ、と画面の前でツッコミまくったよ、私は。「もったいぶるんじゃねえよ、ひーひー喚いてるんじゃねえよ、やかましぃんだよ、死ぬならさっさと死ね」って(笑)

 

それだけじゃない。この映画のエピソードひとつひとつ、演技からセリフからぜ~んぶ安易。ひとつひとつのイメージが安易。いかにもありそうなこと」ばっかりで、逆にことごとくリアリティがないんだよ。絵空事を観てるような感じなのね。

監督が頭の中で「青春とはこのようなもの」と決めた上で、「悩みとはこういうもの」という「一般的イメージ」を並べてみせたわけだ。安易なイマージュなのにカメラワークとかだけ「巨匠」っぽくしてて、「芸術っぽいにおい」を出そうとしてるところもムカッ腹がたつ(笑)。

もしも私がガス・ヴァン・サントなら、ブチ切れてるよこれ。「いったい私のもとで何を学んだんだお前は!?」って(笑)

 

この作品の「さもしさ」は、音楽の使い方をみてればわかるよ。

「エレファント」での音楽の使われ方と比較してみれば一目瞭然。

音楽がインしてくるところは、「ほらほらやっぱりきたよ」という予定調和ですよ。「ああ監督さん、ここでお涙頂戴したいのね」という意図が見え見えなのだ。泣かせの音楽が入るたびに冷え切ってゆく。まあ評価されてる映画だから、ほんとに「泣かされるお客さん」というのがやっぱりいるんだろうけども、私にはダメだったなあ。

 

ともかく、「寡黙な無表情さ」が何よりも雄弁だった「エレファント」と比べると、映画としての格の違いがわかる。唯一、似ているのはカメラワークだけど、それもウワベだけで、『エレファント』で達成されていた『夢幻的効果』は見る影もなくなっている。「エレファント」は「高校生たちの日常の上にそびえる社会の重圧」を感じさせるんだが、この映画で描かれるのはせいぜい「いちハイスクールの中での悩み」だけなんだなあ。ちっこいよ、狭いよ、スクリーンを突き破ってこないよ。社会の暗喩になってないんだよ。

 

まあ饒舌で説明的だから、物語はわかりやすい。こっちが想像力をふくらませなくても、すべて映画の中で語ってくれてる。まるで日本映画みたいな親切設計(もちろん、悪い意味で)。そういうところがウケにつながってもいるんだろうが・・・ねぇ。