役者を罵倒すること

映画道楽しながら、ふと、演技について思った。

日本の映画は、ほとんど「クソな演技」(俗にいうクサイ演技)をやってるようにみえる。

たまに「クソじゃない演技」をみると、それだけでホッとなる。

どうして日本には「クソな演技」が多いのだろう。

それは、この国がバーチャル空間になってしまっているからだ。

「日常」と「非日常」が溶け込んでしまっていて、何をするにもマスイメージを参照しちゃうわけだ。

私たちはもう日ごろから、そういう習慣にドップリ浸かっている。

だからどんな仕草も、「いつかどこかでだれかがやっていたこと」のコピーになっちゃうわけよ。無意識のうちに。どんな現実も「二次現実」になってしまう。

もちろん強みはある。もともと「二次現実」を土台としているアニメなどには好都合な状況になっている。実際、アニメ作品では「くささ」が気にならない。そうでしょ?はじめから「くささ」を前提としたメディアだからだ。表現としては、それだけで凄くトクをしている(タカラヅカと同じだわな)。

問題をモロにくらってしまっているのは、「一次現実」を土台とする映画や演劇である。

いや、映画と比べたら演劇のほうが致命的(ナマモノだからね)。

何故って、役者の身体が二次元的になってしまっているのね。

だから、何をやっても現実に突き当たった感じがしない。

リアルにみえない。

役者の「生身」が、マスイメージの層に隠されて見えてこないのだ。

彼(彼女)が何のセリフを読んでどう動いていても、アニメの中の人物みたいに「薄っぺら」に見えてきてしまう。

それゆえ稽古においては、役者の「生身」を掘り返す、という作業が必要になる。ある種のショック療法である。

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私は稽古のとき、役者がクソな芝居をしてれば、けなす。

バカにする。上から目線で、叩く。

むろん、あえてそうするのだ。「鼻をヘシ折ること」からはじめるのである。

 

だが「経験」を積んで、鼻を「バベルの塔」のように高くした役者というのは、

こちらがその「鼻」をヘシ折ろうとすると、ヒステリーをおこし、

「バカにするな!」と、崩れたプライドの瓦礫の奥から喚きだす。次いで「自分に敬意を表せ!」と、演出家にせまる。

バカか。

ひとつの作品の内部で「芝居」を判断するのは演出家であり、演出家が「クソ芝居」という以上、それは「クソ芝居」なのであり、そこに「敬意」など必要ない。「クソ芝居に敬意を表する」っていうのは、ただ「おだててる」ことにしかならない。だから「敬意を表せ!」は、この場合、「自分をおだててくれ!」という意味と等しいのだ。


もちろん、「おだて」を上手に使って、役者をその気にさせる演出家もいるだろう。

だけど、私にゃあ自分が「クソ」と思うものに対して「おだてる」ことなど、絶対に出来んよ。

おだてなけりゃ維持できぬ集団ならば、解体しちまった方がマシ。私の性にも合っとるわ。

 

まぁ「クソクソ」とやたらと書いたが、もちろん、最後に責任を負うのは演出家である。

最終的に「クソな芝居」を脱皮させてあげられなければ、それは演出家が悪いのだ。よくいるでしょう演出家にも。舞台が終わったあとで「~はクソだ」とか何とか愚痴ってるのが。それは稽古の段階でなら問題ないことで、むしろドンドン罵倒すべきだ。

だが、舞台が終わってから役者を「クソ」呼ばわりすることは許されない。役者を「クソ」で終わらせたとすれば演出家よ、お前が悪いのだ。

 

演出家が役者に示す「敬意」とは何か。

それは「おだてる」ということとは全く違う。

役者がどんな「クソ芝居」をしていても、最後まで根気良く付き合う、ということだ。

そして役者の「生身」を掘り返して、取り戻してあげること、である。

その根気がなくなった時だけ、演出家は役者に対して敬意を失うのだその意味でも今の私には役者への敬意は、もうない、といえるかもしれないがね)。

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なんてね。

何を言おうが、実際に創作しつづけている者のほうが上である。たとえどんな「ゴミ作品」であろうとだ。

上記のようなクダは、私ごとき「無名の人間」の、まぁ、遠吠えみたいなもんさな(笑)