行き止まりの感覚~危険ドラッグ報道から

近年、危険ドラッグをとりあげたニュースをよく目にする。
危険ドラッグに手を出す人はなぜ、手を出すのか。
きっとほとんどの人が「好奇心」と言うだろう。
だが「好奇心」のうしろがわには、多分、本人にも意識されていない根の深い根拠がある。

そもそも、自分のくらしに満足している、あるいは、毎日が楽しいと感じられれば、わざわざ「ヤバそうなモノ」になど手を出さない。
人が危険ドラッグに手をだすのは、大なり小なり自分のくらしに「行き止まり」を感じているからで、それが「流行っている」とすれば、「行き止まり」を感じている人々が増えているから、ということにほかならない。

危険ドラッグのみならず、(従来の違法薬物を含めた)ドラッグはなぜ、人を惹きつけるのか。
それが見ている世界を変貌させてくれる(もっと本物らしく見せてくれる)からだ。
心身の変容をもたらしてくれる(本物の自分らしく感じさせてくれる)からだ。

たとえば映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたり・・といった「消費」は、私たちに「この日常とは違った世界」をちょっとだけみせてくれる。
だが「みせてくれる」というだけで、心身そのものを変えてはくれない。

だがドラッグは心身そのものを「内部」から変容させる。
その変容によって、身体的にはおそらく「死」に近づく。
それは軽い「臨死体験」であり、「死ぬこと」のシミュレーションであるともいえよう。

このような「生きながらの死」は、修練を積んだヨガ行者が感ずる法悦に近いものである筈だ。
「この世」から一挙に超出する、特権的な瞬間である。
だから多分、そのような状態を経験し、なお、自分の人生に「行き止まり」を感じているとすれば、ドラッグにのめり込むのはむしろ「当たり前のこと」でさえあるだろう。

もう一度、問うてみる。
なぜ人は好奇心の名のもとにドラッグに手を出すか。
それは、かれがもともとこの世を「否定」しているからである。

「こんな人生など生きていてなんになる。
こんな社会に生きていてなんになる。
こんな自分に生きていてなにがある。
この世には本当のじぶんなどいない。
この世には本当のものなど何もない。
この世には真実に愉快なものなど何もない。
この世には真実に悲しむべきものなど何もない。
この世は無意味だこの世は無価値だこの自分は無価値だこの人生は無価値だこの世にあるすべてのものは無価値だ」

かれは心のどこかで「この世を超出したい」と思っている。
いいかえれば、「死にたい」と思っている。
だが本当に死ぬだけの理由がない。
だから「半分だけ死ぬ」、その瞬間だけ、「人生を半分、おりる」のである。

ほんとうはそうすることで、自分を活性化させたい、「死にたい自分」を乗り越えたいのである。臨死体験から「復活」した人間が、生まれ変わって新たな一歩を踏み出すかのように。
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皮肉めいて言うなら、人間の欲望を叶えることで発展したきた資本主義社会は、ついに人々の「死にたい」という欲望にこたえてくれる程にまで「成熟」した。

だから危険ドラッグを規制してもなんの解決にもならない。
だが、いまのこの社会にはこれを真に解決することもできない。

ゆえに規制を強化するのである。
解決できぬからせめて規制する。
それは社会が示す、当然の防衛反応だ。


だから私は「規制など下らない」とは思わない。
だがこの世が、この社会が、この人生が素晴らしい、とも思わない。
だから危険ドラッグにハマる人らをただ「バカな奴ら」と切り捨てることはできない。
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テレビの中は今日も明るい。

だが現実の人々のカオには絶望が隠されている。

この社会が抱えた「行き止まり」の感覚は、果たして我々の生きている間に打破することができるものなのだろうかー