アジア的混沌が孕むエネルギー~「長江哀歌」

ジャ・ジャンクー監督の中国映画「長江哀歌」。


ジワジワくる良さ。二回連続で鑑賞した。
多分いい映画だろうな~と思ってたけど、あたった。

メチャメチャいい。

これは大傑作。

私が今年観た映画の中でベスト1。

これは観ないと損する映画。もっとはやく観とけばよかった。

 

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さて、では・・と 映画について書く前に、まず中国について書いておきたい。
中国という国。
ふだん、日本国内のマスコミに頼っていると、中国共産党の悪い部分や中国人のモラルのなさなど、表層の部分しか伝わってこない。

私も中国共産党は好きじゃないが、中国という国の奥ぶかさ歴史的な底力エネルギーというのは決してバカにできない。

日本人はちょっとばかり金持ちというだけでイイ気になって彼らをバカにしてると、そのうち手ひどいシッペ返しを食うよ、と思う。

だってやっぱりあの国のスケールのでかさは半端ないもの。あらゆる面で。

けっこう多くの日本人がマスコミに煽られて中国や中国人をバカにしてるけど、日本が中国に誇れるものなんて「街の清潔さ」「民主主義」「経済的発展」とか、要するに「表層」の部分だけ。
民衆そのものが持っているエネルギーとか人々の横のつながりとか、そういう社会的な「深層」の部分では、ハッキリ言って完膚なきまでに負けてるよ。

人間が生きていくための根幹の強さが、もうまるで桁違いだと思う。

私はこの10年ばかりの間に、何度か私用で中国の東北部を訪れているが、あの国に1週間から一ヶ月ほど滞在するたびに思うのは、心身がものすごく健康になった気がするということ。


あの国にいくと、ココロが正常になる。ほんとに真っ当に「生きている」という感覚になる。

 

日本人の私から見ると、一般の中国人には、「自分」などという「ちっぽけなもの」へのこだわりがない。

だから人との付き合いが「自然」である。

生きるということが「自然」である。

そして私自身、あの人々の口うるさい喧騒の中に身を浸して、酒を飲んだり煙草を貰ったりしていると、自分など巨大な大陸のなかの砂粒のひとつにすぎない、という感覚がじわじわと襲ってくるのだ。

 

すると「自分らしさ」だとか「自己表現」だとか「生きがい」だとかの「現代日本的価値基準」が、薄い紙っぺらのようにふっとんでいく。
そんなものは人間が生きていく上で、ほんとは大したことないものだ、しゃらくさいもんだ、という気になる。

人間は関係の中に生きている。

中国人は特に「関係」に生きる人々だ。

家族であったり友達であったりという「関係」。

それは「自分」という「個人」よりも上におかれている。

だから、ココロを「病む」なんてヒマはないのである。

そんな中国から帰ってくると、その度に、日本という国が異様にみえてくる。

日本人は孤独だと感じる。日本は寂しい国だと感じる。
空港から家に帰るまでのあいだ、電車のつり革にぶら下がると、まず気づくのは車内の静けさだ。
日本の電車の中は水を打ったように静かで、人々の顔は一様に死人のようだ。


我々は、いったい、なにが楽しくて、何を求めて生きているのだろう、と思う。
そして気づくのだ。

 

「生きよう」とする生命のチカラが、まるでこの国からは欠けてしまっているということに。

中国人(と、いうよりすべてのアジア人?)から比べると、
たぶん、私たち日本人の大半はことごとく、ココロが異常である。
人間は他の人間との「関係」の中で生きるものである筈なのに、日本のなかではいまその「関係」が見えなくなっているからだ。

そして「自分」というちっぽけなものだけが肥大して、いつもイライラしている。一触即発で見知らぬ他人を刺し殺しかねない。
周囲がことごとく病んでいるために、自分の「病」に気づくことさえできないでいる。

 

私から見るなら、「社会の深層が空洞化している日本」より、「社会的モラルのない中国」の方がよほど健康的である。

たとえあの国が様々な問題を抱えた独裁的な党に牛耳られた国であるとしても、だ。


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前置きが長くなったが、「長江哀歌」。

この映画の中にあるのはまさに現代の中国そのまんま。
これを観れば、中国がいまどんなところにいるのか、そこに生きる人々がどのように生きているのか、といった、マスコミ報道だけではわからない中国の姿がよくわかる。

この映画は中国の三峡が舞台となっている。
以下、あらすじ

「長江を堰き止めるという中国の国家的大プロジェクト『三峡ダム』の建設によって、2000年以上の歴史をもつ都は水没していこうとしている。
16年前に生き別れた妻子や、2年間音信不通の夫と再会を果たすため、山西省からこの地にやってきた男と女が主人公だ。
果たして彼らは探している家族と再会を果たすことができるのかー
無関係なふたりのストーリーをからめながら、『消えていく古いもの』と『生まれてくる新しいもの』の坩堝となった三峡を描き出してゆく」

まず、この映画、映像がすごく魅力的。
全編渡って、カメラにおさめられているのはほとんど「廃墟」で、あちこちから解体工事でふるわれるハンマーの音が聞こえてくる。
かと思うと、いきなり新都市(ダム建設で強制立ち退きさせた人々を移住させるために、突貫工事でつくりあげたらしい)の光景があらわれたり、10元札の裏に描かれるほど風光明媚な美しい自然美もカメラに収められている。そして豪華なホテルと貧民窟。

瓦礫の町
新都市
風光明媚な自然
貧民窟
豪華なホテル

これらがこの映画の舞台にはひしめきあうように混在している。
すげえ場所だ。
当然、CGでもなければセットでもない。すべてほんものの光景。
この混沌、これぞ中国である。いや、中国というより、アジアそのものだ。
アジアという混沌、その象徴だ。

そしてこの映画、特筆すべきは、「人間」と「風景」とを「同じ重さ」で撮っていることだ。
「人間」を描くというよりは、「風景の一部としての人間」を描いている。
もっといえば、「歴史の一部としての人間」を描いている。
大陸的なスケールから人間を見ている。
だからストーリーそのものはシンプルなのにも関わらず、それを通じて中国という社会や自然という「巨大なもの」がみえてくるのだ。

そしてもう一つ、特筆すべきは、変わっていく光景の中にありながらも、変わらない人々の暮らし。

(中国では煙草、酒、茶、糖《アメ》がコミュニケーションの道具として伝統的につかわれるが、この作品でもこれらのアイテムが人々の交流のモチーフとして描かれる)。

そして恐らくははるかな昔からずーっと変わることなく、しぶとく生き続けている中国人労務者ら、つまりは民衆の姿である。
彼らはまさに「アリンコ」のように、ただ、黙々とハンマーをふるう。
ダム建設にまつわる事業によって巨額の富を手に入れる「一部のブルジョワ」や国家の威信を外部に示したい「お偉方」とは違い、彼らにとっては世界一のダム建設という「国家的事業」など、実はどうでもいいのだ。
彼らはただ、「その日の稼ぎ」のために、金になりそうな場所を求めて、仕事を求めて、中国の各地へ「出稼ぎ」してゆく。

ものいわず黙々と働く彼ら。

彼らの「アリンコ」のような小さな働きが、ひとつひとつ積み重なってあの巨大な国を動かしているのである。
中国共産党は嫌いだが、彼ら下層の労働者たちには、心からアタマが下がる。
彼らは生きている。一生懸命に生きている。

この映画ではラスト近くで、あす、帰郷するという主人公をかこんで労務者らが別れの酒をくみかわす感動的な場面がある。
あそこに、労務者らの飾らない、自然の姿をみることができる。
よそ者には懐疑的でも、ちょっと親しくなると人懐こくて、すごく温かいのだ。
あれは私が現実に現地で付き合った中国人そのまんま。
日本の映画でああいうシーンがあってもすげぇ嘘くさいけど、中国では現実にああなのだ。
中国の民衆というものが本当はどういうヒト達なのか、知りたかったらこの映画を観るといいと思う。


ああいう本当の姿はマスコミ報道だけでは絶対にみえないから。
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この映画、すごくシンプルなのに、現代中国の抱えた矛盾、混沌、過去、未来、醜さ、美しさ、変わっていくモノ、変わらないモノ、すべてを描いている。森羅万象を描いている。

 

役者もメチャメチャいい。

みんなどうみても「普通の人」で、ほんと自然に「そこにいる」という感じ。

実はこれって、凄いことなのだ。

だって役者ってふつう、演技に「味」をつけたがるでしょう。いらないことやろうとするでしょう。でもこの人ら、何にもやらないんだよ。へんな演技の「味」をつけないの。そこらに転がる瓦礫と同じ次元で演技してるの。これって、とても勇気のいること。だって瓦礫と同じ次元で演技するということは、自己表現しない、ということだから。自己表現しない、ということは、自分をハダカで客の前に差し出す、ということ。自分を解体して、純粋に「見られる物体」にする、ということだから。そう、いま、日本でみんなが当たり前のようにやっているのとは正反対の演技

こういう演技ができない《できなくなった》から、ほとんどの日本映画が《演劇も!》ダメになったのだ、と私は思っている。


ともかく、混沌から産み出された、ものすごくエネルギーをもった映画。中国そのもののように、懐の深い映画。
うーん、凄い!
凄いよと唸るしかない。


特に中国という国が日本にとって無視できぬ隣人となっているいま、ぜったい観ておくべき。