底知れず漂う虚無~「弓」

何本か観たがこのごろ心に引っかかってくる映画にあたらない。

体調が悪く、毎日頭痛がして衰弱ぎみなのも原因だろうか。

衰弱した心にやっとひっかかった映画ひとつ。

2005年の映画「弓」。監督はキムギドク。

 

あらすじー

「10年前に誘拐してきた少女と船の上で二人きりで暮らす老人。

老人は自分の船に釣り人らを乗せ、その釣り場代で生計を立てている。
彼は少女が17歳になったら結婚しようと考えていて、毎日その日がくることだけを楽しみに生きているのだ。
少女も老人の愛情に満足しており、二人は世間から隔離された海の上で、満ち足りた日々を送っている。
だが、もうすぐ少女が17歳になろうというある日、都会から青年がやってくる。少女は次第に青年を恋するようになり、老人の愛情を疎ましく遠ざけはじめるのだが・・・」

 

シーンはすべて船の上だけで展開され、主役の二人は一言もセリフを喋らない。全編、表情だけで演技しているのだが、何も喋ってないのに二人の心情が手に取るように伝わってくる。まずはその素晴らしい演技力をほめよう。

 

次にこの主役の少女、男にとってきわめて魅力的に描かれている。

男に向けて浮かべる微笑が、無垢なようで挑発的。誘いかけるようなのだ。

一体、なにを考えているのかわからない。

あるいは何も考えていないのかもしれない。

そういうミステリアスさ(もっといえば白痴性)が男を虜にするのだ。

船にやってくる男たちは、皆、この不可思議で妖艶な少女に魅力を感じ、性的なまなざしを注ぎ、ことあるごとに身体に触れたり、卑猥な冗談を飛ばしたりする。

老人はそのたびに、弓をひいて威嚇する。少女の処女性を守ろうとする。

 

何も言わず、逆らわない、不思議な笑みを絶やさぬ人形のような少女。

男にとってきわめて都合の良い少女。

この映画は徹頭徹尾、男視線で描かれている。

だから少女の白痴性が、これほどクローズアップされるのだ。

 

だが少し冷静になって少女の立場にたってみれば、様相はいささか異なってくる。

少女の身につけた媚態は、おそらく、少女なりに身を守る手段だったに違いない。

相手は自分の理想を育て上げるためには「人さらい」することさえ辞さない男なのだ。抵抗すれば殺されるかもしれない。たぶん、誘拐された当初は、抵抗して、生命の危機に直面したことも数あったに違いない。

少女が生き延びるためには、この男の欲望のカタチを、うまく身体化すること。男の視線が彫刻した「人工品」になりきることしかなかったのだ。

つまり少女なりに環境に適応して身につけた技能、それが「謎めいた微笑」であり「媚を含んだまなざし」だったのだと思う。

そして映画に描かれている現時点においては、その技能はほとんど本能と呼べるほどまでに身体化されている。

少女は10年をかけて、見事に「魔性の生き物」へと変身したのだ。

そしてその「魔性」をつくりあげたのは老人の欲望である。

この世の価値観から背をそむけた男が純粋培養した欲望である。

だからその世界は脱俗的であり異界的である。

すなわち美しく、そして虚無的。

 

老人の少女に寄せる愛情はちっともイヤラシクなくて、むしろきわめて清らかである。

老人の少女をみる眼差しは孫を見守るような温かさにみちていて、これが愛でなければ何が愛であろう。

だからこの映画を観ていると、つい、誘拐のことなどどうでもいいことじゃないか、と思えてきてしまう。二人をそっとしておいてやりたくなる。このような愛の形があってもいいんじゃないかと。

 

もちろん、このような純粋結晶のような世界は、この世と共存することはできない。 他者が、社会が介入してくれば、もろくも蒸発してしまう、うつせみのような世界だ。

だがこの虚無的な世界が美であり真であるなら、人々の暮らす俗世間はなんとニセモノで、粗雑で、汚らわしいものであるか。

 

・・・・・

事実、二人の完璧に閉じられた世界は、都会からやってくる青年によってヒビ割れ、まもなく壊されてしまう。

 

少女を奪われた老人は自殺しようとする。彼にとって少女のいない世界は生きているに値しないのだ。否、そもそも、この世が生きているに値しないと思っていたからこそ、少女を誘拐してこの世ならざる至上の世界を育もうとしてきたのではなかったか。


この世を諦めた男が、この世ならざる美を追求してつくりあげた魔性が、少女なのだ。少女との愛のくらしなのだ。

この世の外に至上の世界をつくりあげるため、をかけて少女に賭けたのだ。

 

老人は海に身投げをする。

 

生きていくことは自分の欲望と付き合うことである。

この男はおのれの欲望を生き切った。

だが欲望を生き切ることは、自分いがいの人間を傷つけることだ。

もしかしたら青年によって愛の世界が壊される以前から、うすうすと、彼の中では「これでいいのか」という疑問が生じていたのかもしれない。そんな自分を騙すためにも意固地になって、少女との結婚にこだわり続けたのかもしれない。

 

この世を諦めた男にはよくわかっていた筈だ。

幻想が破れたら、自分はもう死ぬしかない人間なのだということが

否、本質的には、自分はとっくに死んだ人間なのだということが。

 

・・・

老人の身投げは、監督じしんの、「浄化されたい」という願いのあらわれなのだろうか。

おのれの欲望への、幻想への殉死。

老人の飛び込んだあとの海をみながら、「しょうがないよね、これ以上、生きてたってつまらないんだから」、と、つい頷いてしまっている自分がいた。

 

美しく、そして虚無的な映画である。

 

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コメント: 2
  • #1

    酔っ払った鳩 (金曜日, 23 1月 2015 01:20)

    ちなみに、『親切なクムジャさん』←しまった、酔っぱらいには、タイトルうろ覚えで自信ない……は、見ましたか?

    私は年末年始、角川シネマに『雷蔵』祭、通い倒しました(笑)。
    『炎上』をスクリーンで見たかったのに、そこを見逃したのが悔しいですなぁ。
    そのぶん『破戒』は予想以上に面白かったです。

  • #2

    keitai0 (金曜日, 23 1月 2015 09:40)

    「親切なクムジャさん」は・・3回くらいみたかな?
    パクチャヌク監督のは他に「オールドボーイ」と「JSA」しかみてないですが、その中でもダントツ!に好きな作品です。
    主演のイ・ヨンエが凄く良くて、みてるこっちの想像力をめちゃめちゃ刺激しますね。あと、あのラストシーンとかめっちゃイイ、と思ってます。

    『破戒』ですか。未見です。こんどみてみようと思います(^_^;)