続・日常

1 漸進

かつて、「大人になればもっと自分のことがわかる」と思っていた。

そしてもっと余裕しゃくしゃくと、気楽に生きていけるようになると思っていた。

ほんとは、大人になってもわからないことばかりだ。むしろ、ただ追い詰められていくだけのような気もする。ちっとも気楽にならない。

もしも大人が余裕しゃくしゃくと見えるとすれば、それは「自分のことがわかった」からというより、「諦める」ことを知ったためであろう。

 

2 夢

かくして公演の初日をむかえた。

ソデからうかがうと、観客の視線が一斉に舞台を向いているのがわかる。

ああその期待に満ちた好奇のまなざし。われわれが心血をこめ徹夜でつくりあげた舞台装置。みよ、私の体には綺麗に仕立てられた衣装がまとわれている。

期待を裏切ることは許されぬ。なんとかなるか。なんとかするのだ。拙くとも勢いと、それからタマシイをこめて。

私はさっそうと舞台におどりでる。

第一声は思ったよりすんなりと出た。観客が私に注目する。そうだ、これから目にモノみせてやる。

だが第二声で、はやくも吃った。

セリフが半分しか頭に入っていないのだ。

こうなることはわかっていた。それみろ、言わんこっちゃない。

ああせめて、声だけでも出さなければ。そうだタマシイを、タマシイをこめて。

私は渾身のチカラをこめて、全身を震わせる。見るがいい、イノチをかけた、おらぶ声を。

だがあわれ、ノドから漏れたものはといえば、ヒューヒューと鳴る、可愛らしげな小鳥のさえずりばかり。叫ぶことさえままならぬ。四方から突き刺さる、観客の視線。おおお、わがタマシイはいずこにありや。

地団太ふみながら心のなかで呟くことには、

「ああセリフさえ、セリフさえ覚えておれば」

 

3 ウヌボレ

「人間は誰だって死ぬじゃないか。それがちょっと早くなったからって50歩100歩というもんだ」

今日だって彼はそのように自分に言い聞かせた。生きていく理由など何もない。もういいよ死んじまえ。けれどしくじった。死ぬに死ねない。皆に叱られた。養わなければならぬ者たちもあるのだし、もう、じぶん一人の了見で始末できる命ではないのだ。

彼は悔悟せる人のごとく頭を垂れ、妻に告げた。

「これから先、おれは余生のつもりで黙々と働こう。働きさえすりゃいいんだ。家族を養うことさえ出来れば。それが最小限の義務というやつだろう。精神的には死んだも同じだがね。考えてみればどうせ人間、何をやったって、行き着くところはいずれ老いぼれ。何をやったって無残に死ぬだけ。じたばたしたってしょうがない。おれは決めた。もうこれからは死んだつもりで生きていく」

妻は心底、あきれ果てて、

「自分がまだ何ほどのものかとでも思っているの。悟り済ましたみたいなこと言って、未練たらたらじゃないか。あんたには心の底にウヌボレがあるんだ。だからただ働いて食う生活を『ニセモノの生活』だなんていうんだ。おまえと一緒にその『余生』とやらを過ごさねばならぬ私はたまったもんじゃない。お前の目の前にいる私は生きているんだ。私にも人生があるんだ。誰だって一回きりの時間を、一生懸命、生きているんだ。何が余生だ。バカにするな」

 

4 さびしさ

人間の生活にはいつも何かがたりない。

手をのばす先はことごとく虚妄で、ちっとも腹の足しにならない。

あまりに何も手に入らないものだから、

しまいに飢餓そのものを「自分」のように慈しみはじめる。

不満を食べることで自分の空虚を埋めようとするのである。