眠れぬ夜は頭が収縮して鉄の芯になる


1 癒し

街の辻占いは彼を見かけると呼び止めて、

「ちょっとあなた、お待ちなさい。お気づきですか。肩に悪いものがのっかっています。ひょっとしてあなたの頭のなかは、誰かへの恨みの言葉で一杯なのではありませんか。だとすればお止めなさい。そういうあれは、周囲の怨念を呼び寄せて、結果、自分を苦しめるだけです。ああ、ほら、いけない。あなたの背後の時間は重たくよじれている」

「ええ、だけど」と彼は言った「念じ続けることは悪いことばかりでもないでしょう。何より、テェマがハッキリしますからね。人生のテェマがですよ。何かを呪うということはね、自分の解放でもあるわけですナ。それは考えてみればね、うんと小さい頃から無意識の中で続いてきたテェマみたいなものですよ。殺してやれとか地獄におちろとかそういう醜悪な言葉はね、それはわたしの、うんと小さい頃に形成された核から溢れ出してくるものかもしれんのです。ようするに、いま、大人になって何ものかへ呪いの念を抱き続けるということはね、存外、深いところに根っこが届いていて、うんと小さい頃の『原型』をあぶり出し、それをふたたび『生きている』ということなのかもしれんのですナ、つまり『解放』とはそういうことです。心配はありがたいのだが、もしかしたら、私は怨念にとりつかれることによって『癒されている』のかもしれんのですよ。はっははは」

 

2 乖離

母は言った。

「あなた泥棒したんでしょう。正直に言いなさい。正直に言わないのなら、私はこの家を出て行く」。少年は本当に盗ってなどいなかった。けれどいくら言っても、母は信じずに泣き喚いた。このままでは自分のせいで母がこの家から出て行ってしまう。そうして野たれ死ぬ。もともと思いつめると何をするかわからぬ母だった。

どうすればいいか。少年は頭が萎縮して硬くなっていくようだった。

その瞬間だ。気がつくと、母と自分が、テレビの中の光景を覗き込むように、ぐーっと遠くなっているのだった。死にかけの自分のカラダをななめ上空から見下ろしているかのように、少年はふたつに分離した。世界はペラペラの書割のようになり、泣き喚く母は操り人形のようにバタバタ腕を動かしているように見えた。まるで演劇を演じている親子を、ブラウン管ごしに眺めているかのようだった。

あの人を引き止めるためには、嘘でも「盗った」と言うしかなかった。

少年は、「盗った」と「白状」した。

母は「正直な少年」を抱きしめて、自分の子供が嘘をつかなかったことに安堵する。

「ああ、私の子育ては間違っていなかった」

 

 3 塵芥

いつかあのゴミを処分してやる、と思い続けて一年半が経過した。

ただのゴミ処理問題に神経をすり減らすのは実に馬鹿馬鹿しいが、彼の思念はどうしても同じ場所に回帰するのだった。

あのゴミを処分しなければ、毎日が気が気でない。

じっさい、ゴミはいったんはびこりはじめると、次から次に増殖して手に負えなくなってしまう。部屋の中から廊下、公共の街路へと溢れ出し、近頃では頭の中にまで侵入をはじめた。夢の内部にまでゴミが侵食してくるのだ。たまったものではない。

仕事をしながら、ゴミを処分する方法を考える。

できうる限り、ずたずたに裁断してこの世から消してやるのがふさわしい。この世から抹消しなければ、気がすまない。ほんの僅かな取り残しさえあってはならない。ゴミの繁殖力をなめてはいけない。

 

かくして、ゴミを処分することが人生の主題といえるほどに彼の時間を埋め尽くした。それはある意味でシアワセなことだったのかもしれない。ゴミ処理の問題に追いかけられてみると、世界は実に単純になるのだったから。もう自分の「人生の意味」やら「存在の意味」やらを問いかけたり悩まされたりする時間さえないのだ。その単純さは彼の半生において未だかつてないものだった。と同時に、砂を噛み続けるような荒廃を、彼の内部にもたらした。

 

~眠れぬ夜は頭が収縮して鉄の芯になる。

頭の中が赤く灼熱してしまう。

あのゴミを廃滅せよ処分せよ葬り去れ八つ裂きにしてしまえ~

 

或る重たい朝、彼は自分じしんを梱包し、塵芥置き場に遺棄した。

 

一年半にわたりゴミのことをぶっ通しで考え続けた挙句、自身がゴミと化したのである。

自身がゴミになってみると、不思議と、気持ちが安らいだ。

否、もしかしたら事のはじまりから、こうなることを望んでいたのかもしれなかった。